働く子ども

永田 萌

 

むかしは日本の子どもたちもよく働いていたなぁ・・・と今回のベトナム旅行でそんなことを思い出していた。

ハノイとホーチミン。ベトナムを代表する北と南の街を駆け足で旅してきたのだが、どちらの観光スポットにも十歳前後の小さな物売りたちが大勢いた。絵ハガキや民芸品やTシャツなどを手に「一ドル、一ドル」と声をあげて駆け寄ってくる。

「いらない」と断っても日本人だとわかると「三つで二ドル、安いよ」と日本語で商談を持ちかけてくる。なかなかの商売上手で、ツアー仲間はには同じ物を二十個単位で買い集めている人もけっこういた。

「お店が開けそうですね」とからかうと、「これでずいぶんと安く値切ったのですよ」

と満足顔で、双方ともに良い取引だったようでなによりだった。

小さい弟や妹の子守はあたり前のことで、背中に赤ん坊をくくりつけられて買い物に出されたり店番をさせられたり。それでもその合間には時間を惜しんで遊んでいたから、さほど辛い労働ではなかったが。

私の家は兼業農家で、農夫の祖父に教師の父、専業主婦の母に子どもが三人という家族構成だった。長女のわたしは小学校五年生から朝ご飯作りをまかされるようになり、当時はまだかまどがあったので毎朝、薪でご飯を炊き、畑の野菜でおみそ汁を作るのが日課だった。

ご飯が上手に炊けると野良仕事からもどった祖父や両親が「おいしいなあ」とほめてくれるのがとてもうれしかった。

一つ違いの弟は長男だからと言うので、何の手伝いもせず「おねえちゃん、今日の朝ご飯はなに?」などと遅く起きてきてはえらそうに聞く。幼い私は真剣に男女平等社会の実現を思ったものだった。

もっともわたしは弟に対してはかなりの権力を持っていたので「手伝わないと学校からもどっても遊んでやらないからね」とおどかしてはあれこれこき使っていたが。

そんなわけで中学校に入る頃までの子どもと言うのは、けっこう重要な労働力だったのだ。今思い出しても割と楽しかったのは、家族の一員として必要とされているという自覚が誇りにつながっていたからだろう。

あれからもう四十年。うちの息子たちの世代は家事や家業を手伝うなんて気はさらさらないらしく、特別に欲しいものもないから自分のためにアルバイトするのもイヤなのだそうだ。

そんな現代の日本社会ではほとんど見なくなった勤労少年少女の姿を複雑な思いでながめたベトナム旅行だった。

あれはハノイのある街角でのことだった。わたしは出発待ちのバスの中で外をぼんやりながめていた。アメリカ人らしい身なりのいい老婦人が赤ん坊を背負った十歳くらいの裸足の少年から絵はがきのセットを買い、待たせているタクシーに乗り込もうとしていた。

いがぐり頭のみそっ歯の少年は、泣き顔で背中の赤ん坊を指さしながらもっと買ってくれと残りの絵はがきを差し出した。婦人は厳しい表情で首を振る。少年はなおも手を合わせて頼んでいる。赤ちゃんはよく眠っているらしく半身をのけぞらして、少年の動きに合わせてグラグラ揺れていた。

必死の表情の少年にわたしは胸の痛む思いだったが、老婦人はじゃけんに少年を追い払い、二人を乗せたタクシーは出発してしまった。悲しそうにゆがんだ少年の顔。外に出てわたしが絵はがきを買ってあげようか・・・そう思った瞬間だった。ガヤガヤと騒ぎながら新たな観光客の一団がやってくるのを見たとたん、少年の泣き顔が手品のように満面の笑みに変わった。お芝居だったのだ。

わたしはそのあまりに見事な表情の変化に、びっくりする前に笑ってしまった。見られているのも知らず、少年はいそいそと駆け寄って行く。赤ん坊が人形のように揺れる。人形? まさかねと目をこらすと間違いなく本物の赤ちゃんだった。「でも、もうちょっとちゃんと背負ってやらなきゃ、頭に血がのぼってしまうわ」むかしよく妹をおんぶしていて母にそうしかられたのだっけ。思い出にふけるわたしの頭にふと疑念が。

「まさかあの赤ちゃん借り物じゃあ・・・?」

伸びていく国を象徴する子どもたちはバイタリティにあふれてよく働く。しかも頭と体の両方を使って。

                                終わり