ひとの速度

作家 神津 十月

 

その昔、手紙は下書きせよ、書いた手紙は必ず読み返せよ、と母に言われた。感情にまかせて書き綴った文章は、良い意味にも悪い意味にも勢いがありすぎて、後で悔いることが必ずあるから・・・というのが母の言い分であった。

私の高校時代、手紙は大切なツールだった。現代のように携帯もメールも何もない。電話だって家庭に一台しかないから、長電話は御法度。こうなれば深夜に手紙を書くか、放課後に時間を作って話し合うしか方法はない。

部活動の上級生への直訴、悩みを語り合っている同級生への励まし、そして淡い恋文。宿題や勉強はほったらかしにして、机に向かい、せっせと手紙を書いたことを思い出す。

母の言い分は理解できないことではなかった。感情のままに夜中に書いた手紙を、翌朝になって読み返してみると、赤面したり慌てたり、言い過ぎや不適切な文言に気づいたりして、出さずに破棄したり書き直したりしたことも少なくない。

けれどももちろん、下書きも読み直しもなしに「ええっい!」とばかりに出してしまうことだってあった。そしてしばらくして、後悔したり弁明したり、謝ったり泣いたり赤面したり、また、理解を求めるために再び手紙をしたためる。そんなことを繰り返す青春時代だった。

今、その時代のことを思い返すと、意思伝達の方法もともかくとして、そのスピードの差の違いが引き起こす問題を思う。

歩いていても、移動中でも、思い立てばすぐに携帯電話で誰かに連絡をとることができる。もちろん緊急事態の時、のっぴきならぬ事態の時には有効な手段である。でも、そのような状況下で携帯電話を使っている人は多くはない。会話にせよ、メールにせよ、何か感情がわき上がった時、その想いを瞬時に誰かに送ることが叶うのである。

確かに便利ではあるのだけれども、そのために想いを「寝かせる」ことができなくなった。

この想いを「寝かせる」ことがなくなった時代は、私たちにどのような変化をもたらしたのであろうか。

もちろん私も四十代ではあるが、携帯電話も携帯電話でのメールも、E-mailも利用している一人である。その自分の変化も当然、含めてのことなのだが、まず第一に言えるのは、言葉をふるいにかけることが少なくなったということである。言葉を吟味する時間がない・・・というか、吟味する必要がなくなったのである。

思い違いも思いつきも、すぐに相手に伝えてしまえる。間違いに気づいても「ごめん、違った」で済んでしまうし、相手が気分を害したようならば「なーんちゃって」で、即座に訂正したり誤魔化すことも可能なのだ。

そのために言葉を選ぶことも、吟味することも、ふるいにかけることも、そんなに大切なことではなくなった。今すぐに、生々しい想いを伝えることが最優先であり、研ぎ澄まされた、選び抜かれたものを紡ぎ出す作業は、さほど重要ではなくなったのである。

しかしそのために私たちは、あやふやな不確かな言葉、考え、想いを、簡単に発するようになってしまった。軽くなった。責任を取らずに済む、後から簡単に訂正できる・・・という感覚を根付かせてしまった。

そしてもう一つは、饒舌になったということだ。言葉を選ばず、ふるいにかけず、吟味しないのだから当然である。これは自戒も込めての発言なのだが、この饒舌症候群は、新聞記事にしてもトーク番組にしても、小説やエッセイに至るまで蔓延している。

多くの言葉は、本質を見えにくくする。

情報化の時代の問題点は、おそらくそこにあるのだろうと思う。

政治の世界でも、本質の論議よりも饒舌で新鮮な情報が飛び交うあまり、その核が次第に薄らぼんやりとしてしまう。経済政策でも、夥しい意見や多様な情報の中で身動きがとれなくなる。どこが焦点だったのかが、かすんできてしまうのだ。

時代はよほどのことでもない限り、元には戻らない。情報化の波も、ますます進むだろう。だからその中で新しい処世術を身につけるしか方法はないのだが、私は、どれだけ個人が「選ぶ」「吟味する」「ふるいにかける」という作業に勤めるかが、結局は大きな鍵になるだろうと思っている。

ひとは自分の力以上のところで生きている。新幹線に乗り、飛行機に乗る。見えないはずの光景を映像で見、知り得ないはずの情報も簡単に手にしている。そして想いの伝え方も、ひとの速度をはるかに超えてしまった。もちろんそれは進歩でもあり、知恵でもある。

しかし私たちは少なくとも、自分の力以上のところで生きていることを自覚する必要があるのではないかと私は思う。

ひとは最後までひとなのだから。

                                終わり