切手がPRするホームズの存在

多摩大学教授 河村幹夫

約百年前のイギリスの最盛期、ヴィクトリア朝後期に活躍した名探偵シャーロック・ホームズ。その存在は「不滅」である。現在百四十七歳。さすがに仕事からは引退、リュウマチの持病に時折悩まされてはいるが、かくしゃくとしてイギリス南部の海を見下ろす丘の上の一軒家で養蜂と犯罪の研究に余生を送っている。そのホームズに会いたい人は多いが誰も成功しない。何故なら彼はたくみな変装で人の目を欺くことを楽しみにしているから・・・こういう厳粛な「事実」を無条件で信じないとシャーロッキアンとしては認められない。

ホームズを不滅の存在としてあがめ、長短あわせて60編に及ぶホームズ物語を「聖典」として何度も読み返し、微にいり細をうかがって彼の事績を研究し、賞賛する奇矯な人たちのことをシャーロッキアンとかホーメイジアンと呼ぶが、世界中に散らばるその総数十数万人と称されるとちょっと無視できなくなる。

彼らはロンドンでは「ロンドン・シャーロック・ホームズ協会」、ニューヨークでは「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」、東京では「日本シャーロック・ホームズ・クラブ」

という一千名規模の組織までつくり上げ、精力的に活動を続けている。こうなるとカルト的集団のようだが実際には世間の常識を充分わきまえた人たちがホームズを共通の絆として楽しく、知的に(と自分で思い込みながら)遊んでいるのである。

シャーロッキアンたちは世間の好奇な目をものともせず自分流の研究と称する遊びにふけっているのだが、幾つかのアキレス腱的な悩みを長い間かかえていた。その一つがホームズの「不在の存在」を証明することで、従来はたとえばホームズに手紙を書くと必ず返事が来る、という事実を傍証にしていた。ホームズの住所はロンドン市べーカー街221B番地なのだが、奇妙なことにこの番地は当時も、今も存在していない。それなのに郵便配達員は年間に一千通も届くホームズ宛の手紙を「どこかに」、確実に配達している。だから返事も書く。これはシャーロッキアンだけがその仕掛けを知っている楽しい「謎」である。ただ一つだけ残念なのはホームズがリュウマチに悩まされているという理由で、返事はロンドンの某所にいる彼の女性秘書がタイプを打ち彼女が署名していることだ。

しかし、このように説明してもロマンと想像力を持たない人には通用しない。もっと具体的な証拠を示せとホームズ流儀に迫ってくる。そこに救世主として突然現れたのがイギリスの郵政省だった。1993年10月12日、何と郵政省は名探偵ホームズの事績をデザインした五種類の切手を発行したのである。これがホームズの不滅の存在を確信する証拠にならないはずはないとシャーロッキアンたちは小躍りした。もし、根拠のない情報をベースに切手を発行したら郵政省は事実と異なることを世界中に届ける結果になる。そんなミスをあのお堅いイギリスの郵政省が犯すはずがない・・・。

このように虚実おりまぜた遊び心がシャーロッキアンの真骨頂というべきだろうか。架空の素材を対象にすれば、「事実」が無いだけにいかようにも遊び方を工夫できる。

実は私も最近、南青山にある英国伝統紅茶博物館の二階を借り受け「ザ・シャーロック・ホームズ・ミュージアム・ミニ」と命名した文字通りのミニ博物館を開いた。ロンドンで集めた初版本とかホームズ・グッズを陳列して、ホームズファンとの語らいの場にしたいと願っている。毎週土曜日の午後、大学院の抗議をすませていそいそと南青山に向かう私の気持ちはまさに事件現場に急ぐホームズの心境と重なるのである。

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