米大リーグとイチロー

産経新聞社論説委員 柳島佑吉

 

いま、この原稿を米国野球大リーグ中継のテレビを見ながら書いている。試合はボストン・レッドソックスとテキサス・レンジャース戦である。ボストンの投手野茂はかつての近鉄時代と同様に荒れ玉でフォアボールが多い。しかし、なんといっても米国の大リーグをぐんと身近なものにしてくれたのはイチローこと鈴木一朗の活躍だろう。野球のスピードとスリル、および観客の自主的な熱狂ぶりが画面を通じて伝わってくる。日本のような組織的なカネやタイコの応援合戦がないせいか、バットが球を打つ快音やピッチャーの球音がキャッチャーミットにおさまるパシッという音まで聞こえてきて、思わず胸が高鳴る。その興奮は、わたしが少年時代に神宮球場の早慶戦できいた藤田投手(慶応→読売ジャイアンツ)の快速球や、今はなくなった東京・駒場球場での土橋投手(東映フライヤーズ)の剛速球をよみがえらせてくれる。

多くの日本人は、もしイチローが大リーグに移籍しなければ、これ程イチローの一挙手一投足に注目しなかっただろう。それは特定球団に片寄ったテレビ中継が一部球団だけにファンの関心を引きつけ、そこの選手をまるで芸能人なみにあつかうマスコミの責任が大きい。話はそれるが、さきごろカナダのエドモントンで開かれた世界陸上で優勝した女子選手に対しても、競技中からアナウンサーが「未婚の母が頑張っております」と例の絶叫調で実況中継を繰り返していた。音声を切って画面だけを見ていたら、思わず気分ガスーとした。いったい未婚の母と陸上競技との因果関係はどこにあるのだろう。未婚の母になると体の筋力でもアップするとでもいうのだろうか。その昔、日本では芸者のいる花街のお座敷にあがると幇間(ほうかん)と呼ばれるタイコ持ちがいて宴席を大いに盛り上げた。タイコ持ちの方はちゃんと芸事の修行を積んで唄も踊りも達者なものだった。だが、民放のスポーツ・アナウンサーの多くは、ただギャーギャー絶叫を繰り返すだけで雑音以外の何ものでもない。また昔の話になるが、ラジオとテレビの初期時代にはNHKには志村正順という名スポーツアナウンサーがいて、実況放送の声を聞くだけだ楽しくなったものである。残念ながらマスコミの発達した現在で名アナウンサーといわれる人は関西で競馬中継をやる某民放のアナくらいのものだろう。

日本では残念ながらスポーツニュースも、“芸能化”してドタバタやらないとテレビ局の視聴率は上がらないので、すべてワイドショー化してしまう。田中真紀子現象にしても、小泉人気にしても政治の芸能化以外のなにものでもない。真のスポーツファンや政治を考える人が、民放テレビをひねると、かならず芸能人やその世界のことはまるで分からぬ素人が登場してきて評論や解説をしたり顔で行う。バーに行って純粋モルトウイスキーの水割りを注文したら、ピンクのカクテルや甘い酒が出てくるようなものである。少しでも物事の本質を知っている者なら、その時点でイヤになってチャンネルを回してしまう。

その意味で、今回のイチローの大リーグでの活躍は、純粋とかピュアーなもの、あるいは物事の本質とは何かを日本国民に知らせてくれた。野球の本質はいうまでもなく、投げる、打つ、走るの単純な動作の繰り返しである。イチローはその単純な動作の大切さを教えてくれた。

小生は、今では、“大リーグ中毒”にかかり、マリナーズでいえば、イチローのほかにエドガー・マルチネス、ブレット・ブーン、マーク・マクレモアなどの強打者、それに佐々木をはじめネルソン、ローズという抑えの投手がいる。先発のアボットやハルナには若干不安が残るが・・・。

それにファンサービスの方も徹底している。その典型は、年間に何回か同じリーグ戦の中で他地区の球団との交流試合がある。例えば、西地区のマリナーズは年に何回か東地区のボストン・レッドソックスやニューヨーク・ヤンキースと交流試合を行う。ふだんは見られないカードなのでファンもどっと集まる。日本プロ球団も特定球団を除いて経営が苦しいというが、それなら大リーグを見習って公式戦に何試合かセ・パ両リーグの交流試合を組んだらどうだろう。巨人―西部、ダイエ−中日、ヤクルト−近鉄などのカードが組めれば、野球ファンならずともゾクゾクしてくる。そのくらいのサービス精神がないとだめだ。

                                 終わり