行き過ぎた「民営化」

評論家  佐高 信

今の経済システムを考えた時、競争を是とし、良しとする原理になっているが、その場合は当然だが勝者と敗者を生む。競争に敗れた者、弱者化した者を政治的に救うというのが原則だ。ところが政治は行き過ぎた競争原理をチェックするのではなく、競争を推し進めるだけになっているのが、最大の問題だ。競争には中立のアンパイアが必要なのに、その肝心の審判を「民営化」してしまった。民営化はすさまじい勢いで進んでおり、民営化イコール善という図式のとんでもない行き過ぎが、今回の事件の本質だと思う。

例えば民間検査の日本ERIには大手住宅販売会社などが出資し、株式会社となっている。審判は独立中立でないといけない。なぜ建築確認を民営化してしまったのか。「官」の役割、「公」の役割が完全に没却されてしまっている。競争原理はジャングルの自由であり、弱肉強食の世界だ。それではまずい、ということでルールが決められてきた。よく規制緩和というが、それが「規則緩和」となり、結果として「安全緩和」になってしまった。

もうけることが一番、という考え方の必然の結果、こういうことになった。姉歯秀次・元建築士や小嶋進ヒューザー社長をもちろん肯定するものではないが、こういう人たちが出てくることを前提としてルールを決めねばならない。競争を是としたからには、こういう人たちをはじかなければならないのに、民営化されてルール自体がなまくらになってしまっている。

私は長く日本の会社を見てきたが、民営化イコール善とうのは、どうしてもストンと胸に落ちない。民営化とはつまり「会社化」だが、松下電器産業や三菱自動車、古くは森永ヒ素ミルク事件や雪印乳業など、会社が起こしてきた問題をあまりに知らなすぎる。

例えば独占禁止法には会社にとってはいやだが社会的に必要なもの、という意識が日本の経営者には欠けている。ユーザー(消費者)があって仕事があり、会社がある。つまり「会社」は「社会」にはぐくまれているのに、その循環を壊しても、もうけるという話になっている。かつて日本航空の松尾静麿社長は「臆病者と言われる勇気を持て」と語ったが、臆病者の汚名を甘受しても安全第一で進む勇気を、世論は支えなければいけない。

職人的なモラルの喪失も指摘されるが、モラルは職人の意地や技を認め、大事にするユーザーによって支えられてきた。そういう風土が失われているのではないか。勝ち組優先とか地方都市での「シャッター通り」の出現はまさに競争万能の社会で土壌が荒らされたことを示している。「安く早く」という経営者の意識と、ユーザー(消費者)の意識が同じになってしまった。

ただ、個人のモラルを持ち込んで批判しても不毛だ。事件全体から規制緩和が進んできた小泉改革を疑うことが出てこなくてはおかしい。耐震強度の偽装のみならず、目先のことしか考えない偽装改革の政治構造の問題としてみてもらいたい。