????? 気にしなければ・・・・????? 浜根未稀 若者の、公衆の目をはばからない行為がなにかと非難を浴びている。 たとえば、まるでこの世にいるのは二人だけ、といわんばかりのラブシーン。まあこれは、若さゆえの感情抑えがたしという瞬間もあるだろうし、時代も移り変わっていることだから、程度問題ではあるけれど、一歩譲ってもいいかなと思う。 不愉快なことはほかにもたくさんある。 以前、ある駅の待合室で、長椅子にぎっしり座っていたときのこと。隣のOL風の女性が唐突に髪をとかし始めた、反対側に座っていた中年男性が「こういう所でやるもんじゃないだろう」と声を荒げた。注意したものかどうかと躊躇した私は、よくぞ言ってくれたりと、心の中で快哉を叫んだものだ。 歩きながら飲み食いするのはもうごく普通のことだが、前方からカップラーメンをすすりながら男の子が近づいてきたときには、汁がこちらへ飛んでこないかと気が気じゃなかった。 繁華街の通行路や駅の構内でペタリと腰をおろし、タバコを吸いおしゃべりに興じる。公共の乗り物の中で髪を結ったり化粧をしたり、マニキュアを塗ったりする。こういった光景も最近はよくみかける。場所や時間を見きわめないケータイ電話での通話は、もう言うに及ばず。 アメリカ人の女友達が、「日本に住んで、もっとも嫌なことのひとつ」と嘆いた、風俗漫画を恥ずかしげもなく人前で開くのも、日本の若者現象のひとつである。いや、これは若者だけにかぎらないですね。 ようするに、もちろんすべての若者にあてはまるというつもりは毛頭ないが、自室にひとりだけ、というような状況で行われるべきことを、他人の前で実行するのになんの臆面もないのである。 ある日の夕食時、 「男としては、女の人が化けていく過程はやっぱり見たくないな」 「まったくね、当たり前のことが、当たり前ではなくなってしまったのよ」 などと夫婦で話し合っていたら、 「当たり前ってどういうこと?」 と娘が会話に割って入ってきた。 「常識的であるってことよ」 「また常識、か。例のコモンセンスね。でも別に悪いことをしているわけじゃないでしょう」 この春18歳になった娘は、ただ今「若者」の真っ只中にいる。何事につけても、親の意見にけちをつけたい年頃だ。 「悪いことじゃないけれど、不愉快だわ」 「気にするからいけないのよ」 「でも見たら、気になるでしょう」 「気にしなければいいのよ」 「でもお母さんは気になるわ」 「それはおせっかいというものよ、私は気にしない」 どうも話がくいちがう。何がくいちがうかというと娘は始終「気にする」と言い、私は「気になる」と言い表しているのだ。 考えてみると「気にする」は、個人から発せられる能動的な思考で、「気になる」は他人のありようを受けるというか、受動的な価値判断といえる。 前者は本人が意識的にストップをきかせようと思えばできなくもない。だが後者は、意識を働かせる前の段階で、目に入ったものに感染してしまうのだ。 電車の中で若い女性が鏡に向かってマユズミを描き、口紅を引き、マスカラをつける。 この一連の作業をしている間、電車内にはほかの乗客がいることを、当人が知らないわけがない。ならば彼女は、乗客の存在を気にしていないのだ。周りの人間を透明化して、まったく自分だけの空間に身を置いているのであろう。 そのとき電車に乗り合わせたほかの若者たちも、また、娘の言うことが当たっているのなら、その女性の存在を透明化して、気にしていないのだ。 私も含めた中年以上の人たちが、「無神経なこと・・・・」と眉をひそめ、あるいは「T・P・Oがあるでしょうに」とたしなめたい気持ちを抑えながら、化粧という、きわめて個人的な行為を気にしている、のではなくて、気になっているのである。 そう、気にしなければいいのだ。 若者たちは若者たちの「旬」があり、彼らは案外、いましかできないこと、と計算したうえでやっているのかもしれない。今は若くても、やがて彼らも大人になり親という役割を担えば、それなりに社会に対応し、身を律しざるをえなくなるだろうから。 ふとわが身を振り返れば、60年代から70年代にかけて青春を過ごした団塊の世代の私。変身する舞台裏こそみせなかったけれど、タヌキのようなアイシャドウや、ムカデみたいな付けまつげ、逆毛をたてた鶏冠風ヘアスタイル(今だからそう思える)に夢中になった。 あのころの大人たちも、きっと今の私と同じように、若者たちのありように眉をひそめ、苦々しい思いを抱いていたにちがいないのだ。 終わり |