衣替えはつらい 読売新聞社生活情報部次長 北村節子 夏の衣替えの快感と言ったらない。季節が変わって、重い上着を脱ぐ。薄いブラウスの肌触り。あるいは半そでになった腕にあたる初夏の風。輝く木綿の白。 が、季節の役割を終えた山のような冬物をどうするか、というのもまた、例年の頭痛の種だ。もちろん、しまえばいいのだが、年々、衣類は増える。しかも最近は「安い衣類」が多い。2980円のセーターだの。4800円のパンツだの。こんなに地価の高い東京で、こんな安物を取っておく、そのスペース代の方が無駄ではないか、とは誰しもが思いつくところだ。昨年、「とにかくモノを捨てよ」と薦める本がベストセラーになって、それにそそのかされた面がないではないが、本来、物持ちのよい私が、今年はいつになく思い悩んでいる。 なぜ安いか、といえば、他の価格破壊現象同様、輸入品が増えたから。医療の場合、なんと55%が海外のものだ。それも、ほとんどが途上国で生産されたもの。表面上はヨーロッパからの輸入と見えたり、国産品と見えたりするのも、繊布や裁断、縫製など、複雑な製造過程のどこかで、材料費や工賃の安い途上国を経由している場合が多いという。そうだよねえ、コーヒー一杯、400円というこの東京で、きちんと仕上がって1000円というジャケットができるわけないじゃん、と納得はいく。 目前の安さだけに引かれがちな私たちだが、そんなお気楽消費者の前に、ちょっとどきっとするキャンペーンが登場した。ヨーロッパの10カ国の消費者団体などが作る「クリーン・クローズ・キャンペーン」(CCC)なるグループが、「低賃金でこういうものを作っている人の身にもなってみろよ」と言いだしたのである。 関連団体の調査によれば、たとえばバングラディシュでお針子として働く女性達の多くは家族を離れた出稼ぎ。工場で働くにも契約書もなく、労働時間の管理もいいかげん。寝起きはスラムである。サイパンの工場では、妊娠したら中絶しなくてはならない決まりであるといい、要するに私たちの「安い衣料」は各国の「女工哀史」で支えられているというわけだ。 キャンペーンは、「だから、商品を買う側も心しなくてはならない」として、消費者に「メーカーに向けて、『生産者の権利を守って作られている服ですか』とはがきを出そう」などと呼びかけているが、さあて、それがどれほどの効き目を持つかは分からない。ただ、こういう話を知ると、頭の中でうすうす分かってはいたことながら、「そうだよな、ちょっと古くなったからといって、気軽に捨ててはいかんよな。なんせ汗と涙の結晶なんだから」という同情的論理が生まれるのだ。 しかし、問題はさらにこの先で、やっかいなことに、私のかすかな経済学の知識でも「商品が大事に使われて売れ行きが落ちれば、かえって彼女たちの経済は逼迫する」というメカニズムもまた、理解できてしまうのである。じゃんじゃんとっかえひっかえ服を買い、服を捨てれば、その方が彼女たちの生活向上に結びつく可能性が高いではないか。こうなると、ブラウス一枚、余分に買うほうがどれほど「救済」につながることか。 と、ここで今度はふと、「環境論」が記憶の底から浮かび上がる。ほら、世界中のエネルギー消費の80%は、先進国に住む20%の人口によって消費されている、というあれです。その結果、二酸化炭素は増え、アフリカの緑は消えて、となってくるともういけない。「まだ、着られる服を捨てるなんて、犯罪だ!」というまた別の論理が蘇り、冬物整理の手も鈍るというものだ。 かくして、喜びあふれるはずの初夏の衣替えも、なぜか「この一枚を捨てるべきか取り置くべきか」は意外な大問題に発展し、精神的な大作業となる。冬物衣料の山を前にため息をつく私を、家人は「手順悪いよ」と笑うのだが、誰が知ろう、この地球的悩み。昨今の衣替えの根は深いのである。 おわり
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