長生きの秘訣

仙台逓信病院名誉院長 本宮雅吉

オールドパールは百五十歳まで生きた

「長生きの話」と言いますと必ず引き合いに出されるのがスコッチウイスキーのラベルに登場するオールドパールです。オールドパールは記録によりますと百五十二歳まで生きていました。百五十二歳の時、アルベルン伯爵に招かれてロンドンに来ました。ロンドンでたくさんご馳走になり、汚い空気を吸ったことが原因で肺炎でなくなりました。すでにこの当時から食べ過ぎと、大気汚染は長寿の敵だと分かっていたわけです。オールドパールの結婚した年が八十八歳。百二歳の時クリントン流に言えば「不適切な関係」を持ちました。百三十歳の時には脱穀作業中の彼を目撃した人もいました。解剖に立ち会ったのは、ハーベイという有名な心臓病の大家だったことになっていますから、ある程度は本当らしいのです。

寿命の限界は百二十歳くらい?

人は百五十歳までは生きられる可能性があるとも言われています。腎臓の働きは年と共に低下していきます。腎機能低下の傾向をグラフに目盛りますと、グラフ上では百五十歳になると腎臓の働きがゼロになることになります。そこで人はこれ以上生きられないと説明されています。

最近、分子生物学が急速に進歩し、人の寿命は核酸(DNA)のレベルで決まっていると考えられるようになってきました。細胞が分裂を繰り返しますと、DNAの端にあるテロメアという部分が次第に短くなっていきます。そして、テロメアが完全になくなってしまうのが百二十歳位の時ですから分子生物学では、これが寿命の限界と考えられています。

生物界は女性が長生き

いろいろな動物で寿命を比べてみます

オキゴンドウとかアザラシとかミツバチとか、ライオンも全てそうですが、大体はメスが長生きです。オスが長生きだという動物はいないようです。老健施設に行っても圧倒的に女性が多いのは全国的な傾向です。医学の進歩と共に、近い将来には、ヒトの平均寿命は九十歳くらいまでは伸びるであろうと言われています。

かつては伝染病 今は血管障害

かつてはコレラ、腸チフス、結核などの伝染病で多くの人が亡くなりました。結核で亡くなったスポーツ選手もいます。中距離ランナーの人見絹江さんも二十四年の生涯を全力で疾走し、結核で亡くなりました。オリンピックで銀メダル、帰国途上、船中で喀血、東京帝国大学付属病院に入院。病室には病気が軽く、はやく治るようにと願いをこめて、「カルイナオコ」という名札が掛けてありましたが、その願いもむなしく二十四歳で、お亡くなりになりました。大正三年には文部省検定済みの医学博士遠山椿吉作詞、田村虎蔵作曲の結核征伐の歌もありました。一番の歌詞は次のようです。

ああ結核よ、結核よ

紅顔美麗の少年も

鬼をあざむくますらおも

もしこの病にかかりな

嵐の前の花なれや

怖れてもなほ おそるべし

伝染病(感染症)が減ってからの死因の統計をみますと、癌、脳血管障害(脳卒中)、心疾患(特に心筋梗塞)が一、二、三位を占めています。東北では脳血管障害が多いのが特徴です。人は血管と共に年をとるという表現もあります。またストレスも悪い影響を与えると言われています。

著名人にも多い脳卒中

源頼朝は相模川の新しい橋の落成式の帰途、落馬し、一度は助かりました。二度目の落馬の時に五十三歳で亡くなりました。平家の怨霊の祟りだと言われていますが、どうも脳出血の発作だというのが正しいようです。有名なグレース・ケリー(モナコ王妃)も車の運転中、脳出血で急死しました。五十二歳の時でした。フランクリン・ルーズベルトは、ポリオで下半身が麻痺したにもかかわらず、1932年アメリカ合衆国第三十二代大統領に当選しました。ルーズベルトはひどい高血圧にかかっていました。第二次世界大戦末期、ヤルタで連合国首脳会議が行われた時には、かなり疲労していました。元気のよい発言がなかったのはそのせいかもしれません。昭和二十年四月十六日、ルーズベルトは激しい頭痛を訴えた後、昏睡状態に陥り、そのままお亡くなりになりました。血圧は三百五十耗水銀柱と記録されていますから、ひどい高血圧だったことが分かります。因みに私が逓信病院の外来で使用している血圧計の一番上の目盛りは三百耗です。当時ドイツではルーズベルトの死は「天罰だ」と報道されました。日本の内閣は既に鈴木貫太郎内閣に代わっていました。鈴木内閣は「ルーズベルト大統領は、いち早く体制を立て直し、今や米国の優勢を否定することはできません。大統領の死に対し、心から哀悼の意を表します」という電報を当時の敵国アメリカに送っています。アメリカでは「日本にはまだ武士道が残っている」と評価したということです。昭和二十年代は現在のように副作用が少なく、高圧効果のある薬はありませんでした。飲むと眠くなるとか、頭の働きが若干鈍くなるおそれのある薬しかありませんでした。ルーズベルトはヤルタ会談の会場に向かうでこぼこ道に揺られながらソビエト兵の護衛のもと三時間も車に乗っていました。これはソビエトの謀略だという説もあります。1945年4月ルーズベルトの急死により、トルーマン副大統領が急遽大統領になりましたが、このようなわけでルーズベルトが第二次大戦終結後のソビエトの脅威についてトルーマンに充分意をつくして伝える暇はなかったのではないかと推測されます。歴史に「もし」は禁物だといわれますが「もし」ルーズベルトが高血圧で倒れなかったら、現在の北方領土の問題とか、朝鮮半島が南北に分かれ同一民族が憎しみあう悲劇はなかったであろうともいわれています

進歩した医療技術

コンピューター断層写真でみますと普通の撮影条件では脳出血の部位は白い部分としてとらえることが出来ます。昭和二十年代はこのような便利な診断機器はありませんでしたから、診断するのが大変なこともありました。主に運動機能検査、知覚検査、神経反射、症状などを組み合わせて診断していました。今は画像を見てかなり正確に診断できるようになりました。MRIという機器で検査した場合もT1強調画像で白くうつる出血巣を見つけることができます。かつては大きな出血巣をよく見かけましたが高血圧の治療の進歩とともに、大きな出血巣はあまりみられなくなってきています。病理組織標本でみますと、出血部位はどろどろになっていますがこうなるとどうしても麻痺が残ります。部位の大きさによっては致命的な場合もあります。ウイルソンは1912年に民主党から出馬し大統領になりました。任期中、第一次世界大戦は終結し、ドイツとの講話のためベルサイユ条約をまとめ、国際連盟を発足させました。翌年、秋、連盟の重要性を直接国民に訴えようと遊説中、左半身が麻痺してしまいました。右内頚動脈栓塞と思われます。それから十七ヶ月間もホワイトハウスの寝室で執務したということです。日本では昨年春、小渕恵三総理が脳梗塞で急逝されました。いずれの場合にも共通していることは大変忙しく、ストレスが多いことです。脳梗塞は出血と違い脳の血管の血流が跡絶えることが原因です。現在はMRTで条件を変えて写真をとり、かなり小さい梗塞巣も見つけることができます。脳の深い部分には、七十歳を過ぎますと、かなりの頻度で梗塞巣がみられます。専門用語でラクナ梗塞といいますが、脳の機能、手足を動かす働きなどには全くといってよい程支障はないのが普通です。

突然死は脳出血だけではない

動脈硬化と関係なく働き盛りの方に起こり、かつ、かなりの死亡率の高い脳血管の病気にクモ膜下出血という病気があります。脳動脈瘤といって先天的に血管の弱い部分が膨らんで瘤のようになって破れるために起こります。劇作家の如月小春さんもクモ膜下出血で突然お亡くなりになりました。四十四歳でした。家族にクモ膜下出血にかかった方がおられる場合は動脈瘤が出る可能性が一般の平均よりは高いとされています。このようなこともあって脳ドックによる早期発見、予防手術がかなり行われるようになってきています。

パーキンソン病

比較的高齢の方にみられるパーキンソン病は動作が鈍くぎこちなくなり、手、足、首が震える病気で、医学が発達する前は、脳血管障害もパーキンソン病も区別できなかったようです。現在ではパーキンソン病は脳幹部にある黒質の神経細胞が死んで、無くなってしまい、ドーパミンという物質が足りなくなるために起こると考えられています。

ヒットラーはベルリン攻防戦の最中、1945年4月30日自殺しました。56歳でした。その二、三年前から左手が無意識に震えるようになったせいか、左手が写るような写真の撮り方を極端に嫌いました。戦争の末期には歩幅も小刻みになり背を丸めて、チョコチョコ歩くようになりました。当時、ドイツの敗色濃厚だったせいもあったのでしょう、精気のない老人のように見えたということです。パーキンソン病の特徴の一つに「保続」という現象があります。一つの考え方や、やり方に固執し、新しい事態が起こっても途中から方針を修正することが出来ませんし融通がきかなくなることが特徴とされます。

グアム島から奇跡的に生還された横井正一さんもパーキンソン病にかかっておられました。お亡くなりになる前は、すっと床に臥しておられました。ことに奥様が亡くなられてから食欲もがたんと落ちてしまったとのことです。横井さんがグアムで生存が確認されたとき、驚くほどよい健康状態だったのですが、何でも食べたこと、いつも希望を持っていたことが健康維持に大いに役立ったものと推測されます。

心疾患も大きな死因

心筋梗塞も狭心症も心臓の筋肉に栄養、酸素を送る動脈(冠動脈)の動脈硬化が関係していますが、その病体はかなり異なります。心筋梗塞では、動脈硬化で狭くなった冠動脈に血栓(血液の塊)が詰まって血液の流れが完全に止まり、そのため、その部位の心臓の筋肉がどろどろになってしまい、胸に激しい痛みが起こります。狭心症では冠動脈の流れは悪くなっていますが、完全には跡絶えていません。心筋梗塞の場合は胸痛というより、重い石で胸が圧迫された様な感じが長時間続き、特徴的な心電図が診断の手がかりとなります。

ロシヤのエリツェン大統領も心筋梗塞の為、心臓のバイパス手術を受け、何とか仕事は続けてきました。

解離制動脈瘤は、動脈の内膜と中膜の間に裂け目が生じ、普通の状態では存在しない病的な隙間に血液が溜まって動脈壁が膨らんでくる病気です。大動脈が心臓から出始めた部位に解離が起こりますと心臓を包んでいる嚢に血液が溜まり、非常に危険な状態になります。解離性動脈瘤は動脈壁に裂け目が生じ、段々広がっていく病気で、激しい痛みがきます。但し慢性状態では必ずしも痛みを伴うとは限りません。早く診断をつけることが必要です。血管外科の専門領域です。

生活習慣病の怖さ

長生きのためには子供の時からよい食習慣を守り、大人になってはタバコを吸わず適度の運動を続け、食べ過ぎ、酒の飲み過ぎなどに気をつけることの重要性が機会ある毎に取り上げられるようになりました。肥満、高脂血症、糖尿病などは成人病と呼ばれていましたが、これは日本だけの病名でしたので生活習慣病と呼ばれるようになりました。ドイツでは文明病と読んでいます。文明病の代表は肥満です。ブラームスの三十代の写真を見ますと彼がすらりとした若い作曲家だったことが分かります。晩年のブラームスは肥満状態でした。肥りすぎておなかが出っ張って、ピアノを演奏する際、鍵盤まで手が届かないほどでした。肥りすぎると喉の周りにも脂肪が溜まり、鼾をかくようになります。彼はひどく鼾をかいたので自分の鼾で目を覚まし、よく眠れなかったそうです。その頃、有名な子守歌を作曲しています。但し音楽史によればブラームスが鼾で眠れなかった事と子守歌とは直接の関係はないとされています。肥満時には摂取カロリーを減らせば体重は減ります。また同時に血圧も高い方は下がるのが普通です。

もっと運動を でも体に合わせて

平成十二年十月十一の朝日新聞の天声人語欄に運動不足のお父さんは転びやすいという記事が載っていました。四十歳代のお父さんが運動会に参加しました。ゴールに到達する前に皆転んでしまいました。それは何故かといいますと皆さん、若いときには走り回っていた方で体力には自信があります。ところが四十歳を過ぎて急に走ってみますと現実は体力、脚力が落ちていて走れません。運動会に参加した四十歳代のお父さんの大多数は車で通勤していました。

それでは運動不足を揶揄したガリバー旅行記の中のラピュータ島のお話しをしましょう。ラピュータ島は別名「飛ぶ島」です。この島では汗をかいて動き回ることが非常に軽蔑され、人々は黙って考えているだけでした。しかも考えている内容は空っぽで、くだらないことだらけ、頭だけが重くなって左か右に皆傾いていたという極端な表現をしています。運動不足の頭でっかち人間をたっぷり皮肉っています。ここで舞台はパリに飛びます。パリのクリュニー美術館入り口の南側学校通りに面した小公園にモンテーニュの座像があります。ランドウスキーがこの座像を作成中、モデルとして毎日二時間、計二十回下肢を組み合わせてポーズをとった五十七歳の図案家MG氏が次第に右下腿に進行性の知覚障害と運動麻痺を訴えるようになり、はじめはこのポーズをやめると愁訴は無くなりましたが後には、ポーズをやめても数時間麻痺が残るようになりました。そこでサルペトリエール病院のギラン先生の診察を受けました。ギラン先生は一目見て右外側膝窩部座骨神経完全麻痺と診断しました。MG氏との交替でポーズをとったMR氏もやはり座骨神経麻痺をおこしています。運動不足、しかも足を組んでじっとしているの神経麻痺も起こりえるという極端な例です。最近下腿の深部静脈血栓といって下腿の静脈に血栓(血液の塊)ができる病気がエコノミークラスの旅客にみられるとの報道がありますが何も飛行機のエコノミークラスに限ったことではなく、長距離トラックのドライバーにもみられることが分かりました。

次に運動のしすぎもよくないというお話しをします。フィックスという方がジョギングは健康によいと他の人にも勧めていました。そして御自分では、三十歳の時に九十六キロもあった体重を、十六年間ジョギングを続けて五十数キロまで減らしましたが、五十二歳で突然お亡くなりになりました。解剖の結果、動脈硬化で、心臓に栄養を送る血管、冠動脈が非常に細くなっていました。フィックス先生のお弟子さん達は「ジョギングはよかったのだ。もしジョギングをしていなければ、五十二歳までは生きられなかった」のだと主張しましたが、フィックス先生の突然死はジョギングもいいが、あまりし過ぎるのはよくない。自分の体にあった運動をしなさいという例としてよく引き合いに出されます。

飲み過ぎには要注意

酒の飲み過ぎがよくないという事例は枚挙にいとまがないといってよいでしょう。ターザン役のジョニー・ワイズミュラーという俳優をご存じですか。この人は晩年大酒飲みになり、アル中で惚けてしまって精神病院に入院しています。オリンピックの水泳選手の花形でしたが晩年は悲惨でした。また酒を飲み過ぎて死んだ偉い人もいます。アレキサンダー大王は一度に六リットルもの酒(ただしワイン)を飲んで、その後風邪をひいて死んだと言われています。飲み過ぎはいけないという例です。有名なベートーベンは肝硬変にかかっていました。日本人の肝硬変はウイルス性肝炎が続発する例が多いのですが、ベートーベンの肝硬変はワインの飲み過ぎが原因と考えられています。ベートーベンがワインを飲み過ぎるようになったのは腹痛を紛らわすためだったらしいのですが、最後の弦楽四重奏曲を作曲した頃から腹水が溜まるようになり、1827年3月26日、肝性昏睡で永眠しました。日本人の5%は全くの下戸で一滴も酒が飲めないとされていますが次の「悪酔いを防ぐ酒のつまみの例」ご覧ください。

悪酔いを防ぐ酒のつまみの例

・湯豆腐               ・焼き鳥

・冷や奴               ・ささみサラダ

・イカ納豆              ・ホタテと大根のサラダ

・大豆とひじきの煮付け        ・コーンサラダ

・イカやタコの刺身          ・野菜の煮物

・アサリの酒蒸し           ・ホウレン草のごまあえ

・しじみやワカメのみそ汁       ・おひたし

・焼き魚               ・酢の物

痛風

明治の初期、来日したベルツは日本人には通風はないと報告しています。痛風の発作時には趾に尿酸の結晶が溜まるため第一趾の付け根がものすごく痛むのが特徴です。化膿したのではないかと間違えるほどです。アルコール多飲と肉の食べ過ぎが原因とされ、社長、弁護士など特定の職業に人に多いとされてきました。この頃は痛風の患者さんもあまり珍しくはなくなりました。プリン体の多い食物(代表ビール)がよくないとされてます。

適度の休息 タバコの吸いすぎに注意

ある週刊誌に、金さん、銀さんの写真が載っていました。適度の休息が長寿には不可欠であるという説明がついていました。タバコの害はいろいろな本に載っています。タバコの煙が肺に入って行き肺は煙突の役目をしている訳ですから、肺にとっては迷惑なことでこの事は特に説明はないと思います。高齢になってから、喫煙の影響で肺気腫になり、息切れで困ることのないように注意したいと思います。外来でいろいろな方にお目にかかっていますと十人十色です。その中に「キンエン」ですか、「勤煙」、「僅煙」、「欣煙」、「禁煙」とさらさらとメモ用紙を書いて私に渡した方がおられます。それからは、キンエンとお話しをしてから林にむかっても示さんとする「禁」の禁煙ですとお話しすることにしています。ところでヘビースモーカー全員が肺気腫になるわけではありませんし全員が肺ガンになるわけでもありません。遺伝レベルでの制御が関与しているのかもしれませんが、これからの研究課題の一つです。

胚芽細胞で不老長寿?

一生懸命摂生しても人間は何時までも生きていけるわけではありません。最近の話題として、胚芽細胞が取り上げられるようになりました。胚芽細胞は心臓、筋肉、皮膚など何にでも分化していける細胞ですから(もう培養による皮膚は作られています)これで心臓の筋肉も作って、心筋梗塞で心筋のドロドロになった部分を治そうという試みもあります。あと何十年か後には可能になるかもしれません。昔から長寿は人類のあこがれでした。

例えば「銀河鉄道999」に出てくる機械人間の寿命は千年ですし、「ハリー・ポッターと賢者の石」に出てくるおじいさん、おばあさんは六百何十歳かに設定されています。ここで又、ガリバー旅行記に戻ります。ナブナブ国は不老不死の人がいる国です。額に独特な印のついた人は何時までも生きています。ところが二百歳、三百歳になりますとお互いに話し合っても、言葉は通じません。八十歳になると、もう戸籍は抹消され、国の僅かな年金で暮らすようになります。ブツブツ言って、歯は欠け、ヨロヨロ歩いています。ことに女性の姿は見られたものではありません。ガリバーは長寿の人が多いので感心したところ、この国の王様が「それでは死なない人間をお土産に持っていってもいいよ」と提案しました。ガリバーは即座に丁重にお断りしたと書いてあります。葛飾北斎が画いた晩年の小野小町の画が残っていますが独り寂しく住んでいたようですし、腰痛のために背中が曲がっています。今日の病名で云いますと脊柱管狭窄症ではなかったかと推測されます。このように、只長生きしているだけでは決して明るい老後とは云えません。健康で長生きしなければいけないということです。

できるだけ元気で最後にストン

統計的には長野県のお年寄りが一番元気で長生きしています。一つくらい病気があっても最後まで健康で惚けないでいるのが最も理想的です。

ピン、ピン、コロリ運動(P・P・K運動)という言葉があります。人間は段々、年を取って死に至るというのがあたりまえのこととされてきました。ところが新しい理想的な老化モデルは出来るだけ元気でいて、最後にストンと死ぬことになっていて、これが理想的モデルだというのですがこれは当然です。しかし現実ではなかなかそうもいきません。これもガリバー旅行記の中のお話しですが、フウイネム渡航記という章があります。この国では人は大体七十から七十五歳まで生きます。八十歳になる人はいません。死ぬ前から次第に弱ってきますが、苦痛を伴うことはありません。いよいよ死ぬ十日ほど前には、お見舞いに来てくれた近所の人達のところにお礼の挨拶に行きます。この様子を見ていると、国内の遠いところに余生を送るつもりで出かけるような趣があるということですからこの国の人々は悠々とお亡くなりになっていたに違いありません。ガリバー旅行記は千七百年代の本ですが既にこの頃からこのような生き様が理想とされていました。

悠揚と死に対峙する

ここでご紹介したい本は偉人歴という本です。著者の森銑三氏は高等小学校を卒業してから図書館に勤めながら万巻の書を読んだと思います。この本では著名な方の命日別に伝記が簡単に記述されています。偉人歴で前にお話ししたピン、ピン、コロリの方を探しましたが三人しか見つかりませんでした。先ず正慶尼という女の方です。晩年、彼女は死期の近づいたことことを知り、棺桶を買って、門口に据え、人々を集めて酒盛りをした夜、街へ出て倒れたかと思ったら息は絶えていた。七十八歳、文化三年五月二日。何というさっぱりした最後。次は松田弘斉のお話しです。本名は立花久米蔵、武芸に達した掛川藩のお侍さんで、放浪、博打打ちの親分となって、髪を剃って仏門に帰し、池上本門寺の幹事となる。その後伊豆の某寺にて悠々たる生活を送る。明治に入り、仕官を勧められても応ぜず、履歴を問われても答えなかった。明治十八年三月微恙を得た彼は予め死ぬことを知って薬を取らなかったが、三十一日の朝早く、突然家人に向かって「今日死ぬ」と言った。そして仏に高らかに、経を誦し、棺を覆うて瞑目した。顔色も変わらず、笑いを含んで、さながら生けるが如くであった。ちょっと信じがたいですね。次は原湛山という人のお話です。明治四高層の一人。東京帝国大学にインド哲学科がおかれたときに入って講師となり、仏教を講じた。明治二十五年、因臥すること数日、見たところ病気であるらしい。しかも、どの医者も診察して、病の徴候はないと言う。二十七日になって湛山筆硯を命じ、諸方の友人にハガキを書いた。「拙者儀、即刻臨終仕り候間、この段御報知により候」同日午後三時三十分、白髯を撫し泰然として寂した。齢七十七歳、来弔の客感嘆せざるはなかった。

養生のコツ

いろいろ臓器を作ったり、壊れたところをパッチを当てて補う方法が出来たりして、これからは寿命が伸びることは確実であろうと思います。それでも。P・P・Kをめざして最後まで健康でいるのには、かなりの努力が必要です。健康のための七条(次表)には適当に眠って、タバコを吸わないで、体重は適当に、あまり酒を飲まないで、時にはきつい運動をする。朝ご飯は毎日食べる。間食はしないと記してあります。癌にならないための十二条(次表)もほとんど同じです。この中でカビの生えたものは食べないと言うのはピーナッツのカビのことですが日本の場合は先ず心配しなくていいでしょう。焦げたものは食べない。これは主に日本食の焼き魚のことです。あまり直射日光に当たってはいけない、体を清潔に保つ、この項目は日本ではあまり必要ありません。西洋ではあまり風呂に入らないので、特に皮膚の清潔を強調するわけです。そのためにも香水は発達したのではないかと言われています。

健康のための七条(ブレスロウ)

 適当な睡眠時間

2 喫煙をしない

3 適正体重の維持

4 過度の飲酒をさける

5 定期的にかなり激しい運動をする

6 朝食を毎日食べる

7 間食しない

癌にならないための十二条

1 偏食しないでバランスのとれた栄養をとる

2 同じ食品を繰り返し食べない

3 食べ過ぎをさける脂肪のとり過ぎをさける

4 深酒はしない

5 喫煙は少なくする

6 適量のビタミンA・C・Eと繊維質のものを多くとる

7 塩辛いものを大量に食べない あまり熱いものをとらない

8 ひどく焦げた部分は食べない

9 カビの生えたものは食べない

10       過度に日光に当たらない

11       過労を避ける

12       身体を清潔に保つ

 

死ぬる時は死ぬる

ここで「往生要集」という天台宗の教典をご紹介します。「人は体内から出て七日も経つと、早くも八万個の虫を体に住まわせる。虫は至る所に食いつき、ありとあらゆる病のもとになる。髪の根元には、舐髪という虫が住み、髪をまさに舐めるように常に食い続けている。人はそれでだんだん死んでいく」。また謎の人とも言われている良寛は次のように教えています。「災難にあう時節には、あうよく候、死にいく時節には死にいくよく候」人の死ぬ確率は百パーセントでであることを淡々と教えています。

ベストセラー「モリー先生との火曜日」「葉っぱのフレディ」

表紙の帯の解説と訳者の解説から。モリー先生との火曜日、ミッチ・アルボム著、別宮貞徳訳。スポーツコラムニストとして活躍するミッチ・アルボムは偶然テレビで大学時代の恩師の姿を見かけました。モリー先生は難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかっていました。モリー先生は幸せそうでした。動かなくなった体で人と触れ合うことを楽しんでいました。「憐れむより君がかかえている問題を話してくれないか」モリー先生はミッチに毎週火曜日をくれました。死の床で行われる授業には教科書はありません。テーマは「人生の意味」についてです。「如何に死ぬかを学ぶことは、如何に生きるかを学ぶことである」ことをこの本は示しています。

「葉っぱのフレディ(命の旅)」(みらいなな訳)はアメリカの哲学者レオ・バスカーリヤ博士が死別の悲しみに直面した子ども達、死について的確な説明が出来ない大人達、死と無縁のように青春を謳歌している若者達のために描いた同氏生涯一冊の絵本で日本でも八十万部を越えるベストセラーになりました。「変化しないものは何もないんだよ。死ぬというのも変わるこのとのひとつなんだよ。でも、命は永遠に生きているんだよ」が音楽劇として上演された「葉っぱのフレディ」のラストシーンです。モリー先生と「葉っぱのフレディ」は哲学的な死のとらえ方のお話しでしたが、医学の立場からも老化に関しての概念が変わってきました。高齢者では若い人と比べて体内に大量のサイトカインが存在することが分かってきました。サイトカインの多い状態は全身性炎症性反応症候群(SIRS)とよばれ、SIRSは非常に不安定な状態です。高齢では一寸した刺激でも運が悪いと命取りになることも分かってきました。今SIRSのもたらす危険に対してどうやって対処するのがいいか盛んに研究が行われています。

過剰のストレスもSRISの原因になります。ここにストレス防止の七か条をお示します。

昔からあった惚けない七か条(天台宗)もご覧ください。

ストレス防止七か条

1 一人暮らしは避ける

2 ハードスケジュールを避ける

3 生活の変化に気をつける

4 頭痛、胃痛などの症状が現れたら状況

 原因などを書き留めておく

5 毎日三十分以上運動をする

6 物事はポジティブに解釈する

7 笑う

ボケない七か条

1 仲間がいて気持ちの若い人

2 人の世話をして感謝の出来る人

3 物をよく読み書く人

4 よく笑い感動を忘れない人

5 よく眠りよく歩く人

6 人を喜ばせよく唄う人

7 趣味を楽しむ旅好きな人

私は東北大学を定年で退職してから郵政職員として働かせていただきましたが、大変感謝しておりますことはこの七か条のような仲間がたくさん増えたことです。

                             終わり