老いる

☆★☆★人権より☆★☆★

社会学博士 林 力

「老いる」とはこんなことか。若者たちの姿に怒りっぽくなった。「今ごろの若い者は」は歴史のくり返しだが、こんなに変化があわただしいと耐えにくい。
 
 満員のJRの列車、私の左隣の女子高生のケイタイが鳴った。驚くように大きな呼び出し音、響きわたる応答、誰はばかることがない。屈託がないといえばそうだ。たわいもないやりとりが延々と続く。急ぎの用でないことはたしか。微に入り細にわたる校則からの開放感か。疎外の激しい世の中への孤独へのいやしか。まるで切れそうな糸を必死にたぐり寄せるように懸命だ。その間約20分。とうとう博多駅に列車が止まっても、おしゃべりは続いていた。ケイタイを耳に当てたまま雑踏に消えた。まったく二人の世界。周囲や他人は眼中にない。どこでもあることだ。バイクや自転車の運転も見ていられない。身体に自信があるのはわかる。だが「いのち」をどう思うのか。事故は他人の「いのち」を巻き込むことはわかっているはずだ。「じべたりあん」に聞いてみた。「いすに座るのはきつい。この方が楽だ。」の声も多かった。老人のわたしの方が気の毒に思ってしまう。だからといって、駅のホームや地下鉄の階段でデモンストレーションの必要はあるまい。座る場所ではない。他人は迷惑するところだ。ある女子大の図書館に入ったらソファに足を投げ出した二人の華々しいおしゃべり。とうとう「ここは本を読むところだ。」と怒鳴ってしまった。家の前を通るバスは、近くのマンモス大学前が始発だ。全席学生で埋まってくることがある。老人が乗ろうと、杖を持った人が乗ろうと、先ず席を譲る者はいない。時に車内で化粧する姿を見受ける。地下鉄に大またを広げ荷物を置いた高校生もしばしばだ。老人には考えられぬことばかりだ。

人間が人間を大切にすること、自分が自分を大切にすることはこんなことだろうか。いったいこの国はどこへいくのか。暗たんとした思いは決して高齢だけではあるまい。いったい21世紀のニッポンはどこへいくのか。

今日も教室でしゃべるものがいる。出欠もとらない授業にしゃべりに来てくれるな。

「人間は一人では生きられないのだ。一人で生きていると思うのはゴーマンというものだ。せめて積極的に迷惑をかけることだけはするな。」老教師は怒鳴りながら授業をしている。

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