オトコ色、オンナ色

北村 節子

 夏の終わりに、信州の山に出かけた。所属する山岳環境保護団体の活動で、アジア各国から招いた青少年に日本の自然保護運動の実態を見せるためである。韓国やネパールなどの少年少女と美ヶ原や上高地を歩くのは、なかなか楽しかった。

焼岳に登った日のことだ。雨模様の中、一部地面から水蒸気が上がる活火山を見て、雨と汗で濡れてホテルに帰った。さっそく風呂に入ることになったのだが・。

仕度をして女子メンバーと大風呂に行ってみると、入り口でパキスタンから参加した少年たちが右往左往している。「どうしたの?」と聞いたら、「どっちに入ったらいいかわからない」との答え。なるほど、男女それぞれの入り口には大きな暖簾にひらがなで「ゆ」と書いてあるばかり。男女を指定する言葉はない。ただし、暖簾自体、女湯はピンク、男湯はブルーに染めてある。

「もちろん、男性はブルーのほうよ」と言ったのだが、今度は彼らが納得しない。「なんで?ピンクはきれいな色で、男性だって好きだし、実際、ぼくらの国では男性用のものにもよく使うよ。女性用のブルーのものだってたくさんあるし」

一瞬絶句しながら、わたしはある社会学の研究者の話を思い出していた。「公共のトイレについている男性用と女性用のマーク。女性用は赤で、男性用は黒か青っていう『決まり』は日本くらい。文字かシルエットで示せば十分なのに、なんで日本は『オトコ色、オンナ色』をあんなに決めつけるんですかねえ」と言うのだ。そういえば海外の空港などでは、両方黒ということが多い。

実は、日本の社会が、男女で色を使い分けたがるということはかねてから指摘されてはいた。たとえば赤ちゃんの誕生のお祝いも、女だったらピンクの、男だったらブルーの産着、という具合だ。性別がわからない時点では黄色が無難とされている。小学校に入るとまず例外なく、男の子は黒の、女の子は赤のランドセルを持つことになる。

あんまり世間の常識として定着しているものだから、わたしたちはつい、「それは世界基準」と思ってしまいがちなのだが、どっこい、それは少なくともパキスタンの男性には通用するものではなかった。こうなると「オトコは○○、オンナは△△」というわたしたちの約束事は、その普遍性を疑ってみる必要がおおいにあるということになる。

世の中には、思いこみからくる差別はたくさんある。特に男女については、数が半々で、互いの存在があまりにあたりまえなものだから、「それぞれこうあるべき」という「決め事」もあたりまえのことのように思われがちだ。事実、山のふもとのホテルの経営者は、暖簾の色をなんの疑問ももたずにピンクと青に決めたことだろう。

で、イスラムである。アフガニスタンからのニュース映像では、ブルガという被り物で全身をおおった女性の姿が送られてくる。女は身内以外の男性に肌を見せるべきでない、と言う彼らの約束事は、我々の感覚からはほど遠い。

問題は、我々は気の毒に、と思うのだがおそらく彼女たち自身はそうは感じていないという感覚の違いだ。むしろ、大胆な格好をする女性がいれば、彼女たち自身が「なんとはしたない」と、非難することだろう。

思い出すのは、アフリカのイスラム圏で今も行われている、女性性器の一部を切除し、そのあとを縫合する風習だ。女性の性欲を減退させ、不貞を防ぐというあきれた理由だが、素人が行う不潔な施術で感染症で亡くなる少女も少なくない。もちろん、長じてからも排泄その他で女性はおおいなる苦痛を負うことになる。

この「野蛮」な風習に、かつて欧州の知識層の女性たちが反対運動を展開しようとしたことがあった。晩年のボーボワールも一員だったはずだ。そのとき反対の声は現地の女性から上がったのである。いわく、「アフリカ国家の文化にまで、欧州は口を出すな」「施術した女性のほうが嫁入り先に恵まれる。幸せになる道を閉ざすな」。

似たような構造はタリバン政権下にも起きている。「女性は教育を受けるべきではなく、職業につくべきではない」とされ、その一方で、「女性は男性の医師にかかることはできない」とされる。これでは「女医のいない世界」で、病気や怪我の女性は医療を受けることもできない。「文化国家」を生きる女の一人としては「気の毒に!」と憤るのだが、そして断然、そんな世界は改造すべきとは思うのだが、どこかで忘れてならないのは、「女湯はピンクよ、当たり前じゃん」と「思い込んでいる」わたしたちの常識だ。

アフガニスタンからの悲惨な映像が届くたび、山のホテルの大浴場の前での、くりくりした瞳の異国の少年の「なぜ?」という問いかけが、複雑な課題として思い出されてくる。

                              終わり