信じますか?(その三)

浜根未稀

「どなた様でも結構です、紙切れに、なにか絵を描いてくれませんか」とSさんが言い、六人が手を挙げた。その中に十八歳の我が息子もいた。

「多数なのでジャンケンにしましょう。勝った方か負けた方か、お嬢さん、決めてください」指名された最前部の若い女性は「負けた人」と答えた。そしてなんと、家の息子が敗者となったのである。

息子は差し出された小さな紙に絵を描き、四つに折って先ほどの若い女性に渡した。するとSさんも「僕も今朝、描いておきました」と、胸の財布の中から四つ折りの紙切れを取りだしたのである。

女性がそれを、息子が描いた紙と一緒に開いた。皆が、アッと声をあげた。両方の紙に、同じメガネの絵が、大きさも筆タッチもそのままに描かれていたのだ。後で息子が言うのに、ニンジンの絵を描くつもりだったのが、鉛筆を持ったとたん、メガネに変わったそうな。

さらに驚くことに、Sさんが描いた絵の下に、「○○様、本日ご来店予定。三月某日、午前七時二十三分」と、息子の名前入りで書かれていた。午前七時二十三分といえば、私たちが羽田空港で長崎行きの飛行機を待っていた時間である。

「人の未来も過去も分かります。君の結婚相手もね。でも教えるのはやめておきましょう」Sさんのことばに対して、息子は照れくさそうに笑い返しただけで、その相手が誰かをたずねる勇気はなかったようだ。

この結婚難の時代に、とりあえず息子が結婚するという御託宣を受けて喜んだのも束の間、Sさんは続けて恐ろしいことを言った。「この世に偶然はありません。少しの脱線はありますが、大筋の事柄は必然性を伴って起こります」

つまり、人の運命は生まれたときから、ほぼ定められているというのである。私の心はざわめきたち、葛藤が始まった。さまざまな疑問がわきあがってくる。

もしこの世がほんとうに必然性を伴って動いているのなら、事故にあったり不治の病に倒れた人も、殺人者も犠牲者も、初めからそう決まっているというの?昼の部のキャンセルが四席出たのも、女性が負けた方と言ってジャンケンで息子が負けたのも、そして同じメガネの絵に至ったのも、すべて定められていたというわけ?

運命が定められているというのなら、目標に向かって励むということはどういうことなのか。ゆるがない意識とか強い意志をもつことがなんになろう。まして「努力」という言葉は意味をなさなくなる。

しかしSさんは、私の気持ちを見透かしたように言ったのである。「希望を持って前向きに生きてゆけば、運命は開けます。日々の努力は無駄ではありません」それでは話が矛盾してしまう。私は頭の中が混乱してしまった。

帰京してすぐ、近くの市営図書館へ足を運んだ。「理性のゆらぎ」「潜在能力」「宇宙エネルギー」などなど、いままで無関心に通り過ぎていたコーナーの書架に、未知なる世界に関する書物が並んでいる。私は手当たり次第に読みあさった。そして、共通して一つの説が述べられていることに気がついた。それは、

「念ずれば、運命はそのようになる」というのである。念ずるというのは、真剣に、迷わず、あきらめず、思い続けることである。そうすることで宇宙間の、人知の及びえぬ大きな力が作用し、願いの実現を可能にしてくれるというのである。

子どものときから、自分の人生は自分で決め、目標を持って精進すれば道は開けると教えられた私は、自分の力だけで、いままで生きてきたと思っていた。だが、そうではなかったのだ。これまでの私の半生は、目に見えない何かの力に導かれてきたのだ。その目に見えない何かが、私の力の及ばぬところで作用しているのなら、それこそが必然で、運命と呼ぶべきものにちがいない。

念ずる力が自分を応援してくれると信じること、運命が決められているとはそういうことである。そのためには、心身ともにエネルギーがいるし、受け身でいてはできない。「百聞は一見に如かず」の格言のとおり、不思議なショウをこの目で見て、私は心にきざんだ。人は目に見えぬ、なにか大きな力につき動かされ、生かされているということを。けっして忘れはしない。

                                 終わり

Kochan注:
このシリーズを読んでどうでしたか?
私もこのショウを見ましたが、まさにこのとおりでした。
目の前に起きる不思議な出来事もですが,お話しもなかなか興味深いものがありました。
行ってみたい方は場所をお教えします、ご連絡ください。