世界の山々をめざして (田部井淳子)
ーーーー人生楽しまなくちゃーーーー      

エベレストは三つの名を持つ
 七大陸の最高峰のうち、五つの最高峰までは、誰が見ても文句はないんですね。
 まずアジア大陸の最高峰がエベレストであるということ、これはみなさんもご存知だと思うんですが、実はこのエベレストというのは山の名前ではないんですね。
 あの山の高さを測量したときのインド測量局の初代長官の名前が、ジョージ.エベレストだったんです。ついこの間アメリカが測量をしたところ、高さが変わったというので8848から8850メートルに昇格したというニュースを耳にしましたが、そのジョージ.エベレストという人の名前にちなんで山の名をエベレストに命名してしまったんですね。
 ところがネパールでは昔からあの山を”サガルマータ”と呼んでいました。同じ山を反対側のチベットの人たちは”チョモランマ”と呼んでいたんです。それでエベレストとチョモランマを別々の山でと思っている方がいらっしゃったり、どうも最近エベレストはチョモランマと名前が変わったそうだよ、などという方もいらっしゃるんですが、同じ山なんですね。
 ただ中国側から登るときには中国側の呼び名であるチョモランマというのを使わないといけないということになっているんです。このように国境を隔てた山というのはそれぞれの国独自の呼び名を持っているんです。

ガッシャブルムU峰
世界で二番目に高い山というのは、K2と呼ばれる山です。
実は昨年私も、K2と呼ばれるこの山のすぐそばのガッシャブルムU峰という、8035メートルの山に、シルバータートルという隊で行ってまいりました。
 シルバーというのは、私のように白髪が混じってきて、タートルというのは、亀さんという意味ですから、ゆっくりゆっくりとヒマラヤに行こうじゃないかという隊です。隊員の資格というのが50歳以上でした。
 残念ながら頂上には立てませんでした。7800メートルまで行って、ほんのすぐそばに頂上があるというのはわかっていたんですが、そこで中国側の風がものすごく強くなり、
地吹雪も強くなり、10メートル先も見えないという状況がでてきたことと、一緒に行った隊員の中の一人が高山病になり、かなり遅れていたんです。これ以上私が進んでしまうと、その幅はもっともっと広がってくるし、視野が効かなくなるところで先にいってしまうのはいけないなという気持ちがすごくありました。登山というのは、頂上に立つというのが目的のうちの一つではあるんですが、行ったときの人数と帰りのときの人数が同じだということのほうが私は思いまして、これは行くべきではないと判断して、7800メートルから引き返してきました。
 そのすぐそばにあるK2というのは、カラコルムで2番目に見つけられたというので、その測量されたときの名前がそのまま山の名前になってしまったんですね。パキスタン側から登るとK2ですが、反対の中国側から登るとチョゴリという名になっています。

拉致事件の数日前にキルギスから帰国
今年、7月8月とキルギスの最高峰へ行って来ました。
 それまではキルギスというと、それはどこにあるの、いったい何の名前というようにいわれたんですが、私たちが帰った翌日に、日本人4人が反政府ゲリラに拉致されたという事件がありました。これでみなさんもキルギスという名前をずいぶん耳にされたと思いますし、だいたいあの辺にあるんだという想像がついたと思います。あそこは天山(テンシャン)山脈になっています。その天山山脈の最高峰ポベダという山に登ってきたんです。
そのときは、6200メートルのところで大きな雪崩に出会いました。自分たちが起こしてしまった雪崩でしたので、私もそれに乗っかってしまって600メートルくらい落花したんです。でも助かったんです。運が強いといえば強いんですが。それで登れなくて帰ってきた山だったんです。
 その当時は旧ソ連のキルギスは外国人が入れなかったんですね。やっといけるようになりました。私は今年還暦だったんですが、何とか還暦の前に行こうと思いまして、9月が誕生日ですので、7月、8月ならなんとかスレスレ還暦前、50代最後にそこへ行こうと思ってキルギスの最高峰へ登ってきました。
 非常に難しい山でした。7439メートルあるんですが、まず雪崩が多いことと、ずっとフィックスロープをつけ、ユマールというものを使用してのぼらなければいけない、その岩稜帯が非常に長くてそれだけでも大変なんです。ポーターもシェルパもいないから、全部の荷物は自分たちでしょっていかなけてばいけないのでとてもたいへんでした。

ヨーロッパの最高峰は?
 最後のキャンプ地が6900メートルで、そこから7000メートルの稜線が約4キロメートル続いています。さらに500メートルの高度差を上がって頂上に行くというとても難しい山だったんですが、まあ女ばかりで行って登ってきました。
 これがキルギス側から登るとポベダと呼ばれるんですが、中国側からですとトムールという呼び名になっています。
 このように国境にまたがる山はそれぞれの国独自の呼び名がありまして、なかでもアジア大陸最高峰のエベレストは三つもその呼び名を持っているんです。
 アジアはエベレストといいましたが北米大陸はマッキンリーで、南米大陸がアコンタグア、アフリカ大陸がキリマンジャロ、そして南極大陸の最高峰がリンソンマシフという山です。そこまでは、先ほども言いましたがだれも文句がないんです。
 ところがヨーロッパ大陸の最高峰はというと、実は意見が二つに分かれまして、モンブランという人、もう一つはモンブランはフランスの最高峰ではあるが、ヨーロッパ圏というのは現在ものすごく範囲が広くなったーベルリンの壁はなくなり、ソ連は崩壊しモスクワの東からずっとカスピ海までーということで、黒海とカスピ海の間のコーカサス山脈という高い山脈があり一番高いエルブルースという山で、モンブランより800メートルも高いんです。ですからヨーロッパ大陸の最高峰といったら、フランスのモンブランではなくてエルブルースだというんです。 私は両方とも登っていますからどっちに転んでもいいなという気持ちは持っていますが、実際に行ってみますと、やはりエルブルースのほうが圧倒的にスケールが大きいのです。ですから誇り高きフランス人も、ヨーロッパ大陸の最高峰はとたずねると、うーんーーーエルブルースかな、と答えるようになりました。

オーストラリアとインドネシアは地続き
 残す最後の大陸はといいますと、ほとんどの人がそれはオーストラリアでしょうというんです。ところがオーストラリアには高い山がないんですね。一番高い山が2230メートル。コジヤスコという山で、この山は首都キャンベラから車で3時間半くらい走りますと、大きなスキー場でスデドボというところがあるんですが、その奥にあります。スキー場ですので1700メートルくらいまでリフトが動いています。そのリフトを降りて、子供の足でも3時間弱で頂上には立てるんです。雪が溶けますと、ちょうど日本の乗鞍岳のようにずっと頂上まで車で行ける道があるんです。車の扉を開けたところがコジヤスコの頂上なんです。
 そういうところを七大陸の最高峰の一つとするのは力不足だという意見もあります。
 実は、オーストラリアのすぐ北には、インドネシアというところがあります。ここは赤道直下にもかかわらず、年中氷河を持った高く白い山があるというんです。しかもオーストラリアとインドネシアというのは、地図で見ますと間に海があって離れているように見えるんですが、だから、オセアニア大陸の最高峰といったらオーストラリアの2000メートル級の低い山ではなく、インドネシアの山だというんです。

最高峰の頂上が溶けて
 それではインドネシアの最高峰はどこなのかという話になるんですが、これもすごく面白い話がありまして、1964年に京都大学が、インドネシアの軍と共同で西イリアン探検隊というのを出したんです。その時に、西イリアンの最高峰に登ったんですが、なんとスカルノ峰と呼ばれていました。しかし、このスカルノという呼び名はよくないというので、あとで名前がジャヤ山と変わったんです。ですから、今でも中学生が使っている社会科の地図を見ますと西イリアンの最高峰はジャヤ山と書いてあって、5300メートルと記入されていると思います。
 ですから私もこの山が最高峰だとずっと信じきっていました。ところが1970年に入りまして、イタリアにラインホルト.メスナーというすごい登山家がいるんですが、この方が西イリアンの許可をもらって、その山に登ったわけです。しかもちゃんと高度計をつけて登ったんですね。そうしましたら、最近の地球の温暖化ということが多少関係があったんでしょうか、頂上が全部氷河だったんですが、その氷河がだんだんと溶けていて標高が低くなってしまったんですね。そしてすぐ隣にあるカルステンツピラミッドという全部石灰岩でできた岩山があるんですが、それは溶けないですからなんとこちらのほうが11メートルも高くなっていたんです。それでこのカルステンツピラミッドという山が七大陸の最高峰の一つに数えられるようになったんです。

1991年、念願の南極へ
 1991年、南極へ行きましたけれど、南極は本当に遠いところですね。しかしすばらしいところです。値段もすばらしいところです。私たち民間人が南極に行くことができるとわかったのが87年だったんですが、これはカナダ人が始めました。
 カナダの山好きが、やはり地球を七つの大陸に分けていまして、その七つの大陸の最高峰を登ることは、セブン.サミットになると、始めたのですがこれは大きなステータスシンボルになるということで、やりたがる人がけっこういるんですね。
 ところがすごくお金がかかるわけです。
 それでカナダにあるいろいろな企業に寄付のお願いにいったら、ものすごいお金が集まってしまって、エベレストも登れて、ほかの山も登れて、残すところは南極だけになったんですね。 
 カナダの山好きの人たちはどうやって南極に行ったかというと、この辺の発想が私たちと違うなと思ったんですが、南極へ行くというと、定期便がないわけですから幾方法がすごく難しいわけです。彼らはこれだけお金が集まったんだから、自分たちで飛行機を買ってしまおうというので、DC−6という飛行機を買ってしまったんですね。 
 で、パイロットを雇って南極に行ったんです。

南極登山資金通帳
 そうしたらすばらしいとことだった。山もすごくよかった。こんな美しいところを自分たちだけで終わらせてしまうのは惜しいという、そういう気持ちから、北極とか南極とかそういう極地だけを案内する一種の旅行代理店のようなものなんですが、アドベンチャーネットワークという会社を作ってしまったんです。
 その会社のことがたまたま山の雑誌に載っていて、私が見たんです。
 ここに頼めば私たちも南極に行けるんだなということで、すぐに資料を取り寄せました。 驚いたのは値段です。これはだめだと思ったんです。でも、もしかしたらいつかある日という気持ちがありましてそれから南極登山資金通帳を作りました。毎月毎月貯金しました。もちろん、郵便局にも貯金しました。もうこれ以上入りませんというくらい、郵便局の通帳に入っています。簡易保険にも入っているんです。
 毎年七夕がくれば南極に行きたい、南極に行きたいと短冊に書き続けました。
 夢はやっぱり持つべきだと思います。夢は本当にいつか実現できるんです。
 91年には全額貯まらなかったんですが、私の家の都合もうまくいったし、いつも一緒に山にいっている仲間も休暇が取れるというので行けたんです。
 いつも山に行っている仲良しグループ女3人、自称少女隊なんて言っていたんですが、それはないでしょうということで、今はその上に元という字をつけましたが。
 その3人で行こうと思っていたんですが、このことを聞きつけたある一人が、どうしても南極の山には自分も行きたかった。行く手段がなかったが、田部井さんたちが行くと言うことが分かったので、女子隊だというのはわかるんだけども、なんとか自分たちも隊に入れてくれないかと擦り寄ってきた男が二人おりました。
 どうしようかと考えたんですが、いいよと言うことになって、女三人、男二人の五人のグループになったんです。

15+11+38時間
 私たち5人で南極に行く飛行機をチャーターしたら、ものすごい金額です。ですから、この時期に南極へ行かないかと、各国に募集するんです。これはあでベンチャーネットワークというところがやってくれて、集合場所はプーンタレナスですから、そこまで行かないと私たちは一体どういう人たちと南極へ行くのかわからないんです。
 日本からですと、南極に行くにはどこをどう通って行っても遠いんです。
 私たちはカナダ航空で行ったものですから、成田からバンクーバー経由でトロントというところに行くんです。そこまででも14〜5時間かかります。
 本当はトロントで一泊したほうが体はうんと楽なんですが、泊まればホテル代がかかる。
それが惜しいというのですぐに乗り継ぎましてサンチャゴまで行きました。ここまでがさらに11時間かかりました。本当はサンチャゴで一泊したほうが楽なんですが、泊まればホテル代がかかる。それが惜しいというので、これまたすぐに乗り継ぎまして、チリの一番南のプーンタレナスというとことまで38時間かけて行きました。
 着くだけでよれよれになっていました。
 
75才で南極に
でも日本人5人でちゃんとやってきました。アメリカから2人きました。そのうち1人は、なんと75才の方でした。鉱山技師の方でして、日本には25回もきたことがあるという大変な親日家。でも75才で難局の最高峰に行こうという心意気、これはすごいなと思いましたし、その方は自分にうんと厳しくて、基本的には自分のものは自分が持つんだという姿勢がすごくありまして、非常に軽量化した道具だけを持ってきていました。
 第2キャンプまでスキーを履いていって、私たちと同じようにテントを張って、私たちと同じ物を食べて、同じ行動をしました。しかし、残念ながら頂上には立てなかったんです。

さわやかな断念
 その方は4500メートルの最後のキャンプ地から約2時間、雪をラッセルしたときに、もう自分はここで限界だというんです。これからもうちょっとだったら行けるかもしれないが、そこまで行ってしまうと今度は一人で降りられなくなって、誰かと一緒に降りてもらわなければならなくなるかもしれない。でも、今ここからだったら、自分は一人で降りて行けるというんです。だからあなたたちは行って来なさい。自分は最後のテントで待っているというんです。
 その人は一人で降りていきました。その後ろ姿を見ながら、やっぱりすごいなと思いまして、自分が75才になったときに、南極最高峰の山まで行くぞという心意気があって、こんなにさわやかに判断して実行できる、そういう山登りがしたい。そう思わせる方と一緒でした。
もう一人は43才のアメリカのお医者さん、男性です。あと二人、フランスからやってきまして、一人はプロの登山家、もう一人はその人を撮るためのプロのカメラマン。あと一人、ドイツからやってきた40代の財政コンサルタントをやっているという、やはり8000メートルの山の経験がある方ーというふうに、日本、アメリカ、フランス、ドイツそしてガイドはカナダ人という五カ国からなる一種の国際隊なんです。

350万円も決して高くない
 プ−ンタレナスで集合し、そこから南極に飛んでいく飛行機と南極で使う食料、装備はアドベンチャーネットワークというところが全部用意してくれるんですね。
 そこに支払ったお金が、一人あたり18500ドルです。円だったらすごくよっかったんですが、ドルなんですね。
 当時1ドル145円ですから、2682500円、すごい金額です。これは南極で使うお金で、日本からプーンタレナスへ行く飛行機代は別建てです。
 そこに着いてすぐに飛んで行ければ滞在費はいらないんですが、天気が悪いと飛んでいけないというので天気待ちをします。その間の滞在費も自分たち持ちです。それにすごく寒いので、特殊な二重靴を作ったし、毛皮のフード付きのワンピースのも作りました。
 そういった装備など全部ひっくるめますと、南極の山に登るために費やしたお金は350万円です。やはりすごいお金だと思います。
 実際に行ってみますと、本当に美しいところだと思います。こんな美しいところが地球上にあったんだ、こんな美しいところを私は生きているうちに見れたんだ、これだったら350万円出しても決して高くはないと思えるほどでした。

氷の厚さ2000メートル
 第一歩を南極にしるしたとき、すごいなと思ったのは、氷の厚さが2000メートルという、その氷の存在感です。
 見渡す限りの大氷原です。盛り上がって見える地平線全部が氷なんです。大陸の上に、2000メートルの氷が載っかっているんです。地球上で一番標高が高いのが南極なんです。
 そこからさらにセスナ機に乗り換えて約1時間でベースキャンプに入るんですが、そのセスナ機の上から見下ろした南極大陸は本当に美しかったです。
 何万年、何十万年も人間も他の生物もだれも歩いたことのない雪、氷。本当に美しくて、清潔だとか清らかだとか荘厳だとかそういった言葉を越えた美しさというんでしょうか。
 私はあまり宗教心というものを持っていなかったんですが、あの風景を見たときに、神様というのはいるかもしれないとさえ思いました。
 私たちは生きているということより、生かされているんだという、そういう気持ちになりました。
 こんな美しい風景を見たんだから、これから先どんなつらいことがあっても、どんな苦しいことがあっても、この風景を思い出して切り抜けていこうと思えるほど美しいところです。

沈まない太陽に輝く雪の結晶
 ベースキャンプは2400メートルの高さなんですが、かなり空気は乾燥していて気温は低いです。降ってきた雪は結晶が溶けないで、そのままの形で残っているんです。すごく軽いですから、一歩足を踏み出しますと、その振動で回りの雪が不わーっと舞い上がるんですね。それが風に乗って飛んでいきます。そしてまたひらひら落ちてくるんです。
 ちょうど私たちがいった時期、日本のお正月頃は、太陽が沈まない時期、横に移動している時期なんです。ですから、天気のいい日ですと、真夜中の1時2時でも燦々と日が差しています。それが雪の結晶にあたりますと、プリズムのようになってキラキラと輝きながら、自分の目の前をひらひらと降りてきます。
 それがふわっと雪原に乗っかると、果てしない大雪原は結晶だらけ。まるでダイヤモンドの上を歩いているような、本当に美しいところです。
 ああ、こういう美しいところを汚してはいけない、そういう気持ちが自然にわいてきました。

出したものはすべて持ち帰る
 私たちは、ゴミはもちろんですが、排泄物も含めて持って帰りました。これは本当に難しいです。小のほうはしょうがなかったんです。大のほうだけもって帰ったんですが、雪を着る鋸(スノウソー)というのを持っていきまして、南極の雪を四角に切るんです。それをすくうと氷のブロックができます。それをコの字型に積み重ねっていって、真ん中を階段状にします。ちょうど筒状になりますので、そこにプラスチックのバッグを入れてしまいます。
 それだけですと上がつるつるしてやりにくいですから、お風呂のマットのようなものでちゃんと便座を作りました。雪が降ったときのためにベニヤ板で蓋も作りました。そこで男の人も女の人も大のほうをするわけです。
 かなり気温が低いですから、本当にあっという間に凍ってしまうんですね。すると匂いも何にもなくなって、いやな感じはなくなります。具体的にいってしまいますと、あとでこのお菓子が食べられなくなるという人がいるんですが、かりん糖みたいになっちゃうんですね(笑)。
 本当にいやな思いがなくて、むしろこんな美しいところに自分たちの排泄物を残していくという、そのことのほうに抵抗がありました。最後のキャンプのあと,それは全部撤収しました。封をしっかり閉めまして、そりで荷物を運んでいましたので、そりに乗っけて飛行機のところまでそれを引っ張ってきました。そして飛行機に乗せて、ちゃんと持って帰りました。

富士山でも持ち帰りを
こういう話をしたら、南極という特殊なところだからできたんで、日本ではそれは難しいでしょうといわれているんですが、日本でもそれをやらなければいけない場所というのがあるんです。
 それは富士山で、何とかしたいという気持ちがありまして、一度持ち帰ることをやってみました。今はいろいろよくなりまして、紙おむつを改良したものが袋の中に入っていて、そこにするとちゃんと固まってくれる、匂い消しもついている。それを荷物として引っ張って降りてくることは可能になっています。でもそれを今すぐみなさんに、というのはなかなか難しいところがあると思うんですが、せめて富士山に登る人はそれくらいの意気込みが欲しいかなと思っています。
 もちろんカナダのガイドの人たちというのも環境や自然保護にはうんとうるさい人たちですから、持っていくものは厳選して、余分な包装紙は全部はずします。もちろん私たちもそうしました。紅茶パックも紙の部分は全部はずし、紐についている紙のつまみまではずします。使い終えたパックはすてないで、食器を洗うときのたわし代わりに使うんです。それも全部もって帰ってくるようにいろいろと工夫をして考えています。

便座の上で切ったチーズ
 このカナダのガイドというのは合理的といえば合理的、応用だだといえば応用だとは思ったんですが、私たちは便座というものを一個しか作っていなっかったんですね。ですから、第1キャンプから第2キャンプへ移動していくときには、第1キャンプで使った便座をはずして、それをもって移動してわけです。その途中で、行動食というお昼ご飯を食べるんですが、ちょうどいいのがあるということで、その便座の上で、サラミソーセージとかチーズとかを切って渡してくれるんです。
 たしかに南極というのはみ無菌状態ですから、何にもないというのはわかって入るんですが、あれは便座の上で切っていた(笑)、というのがわかるものですから、ぱっと手はでなかったですね。でもそれが南極でした。

自分の歴史を豊かにしたい
 私がどうして山に登るようになったかということについては、時間もありませんので、あとで本でも読んでみてください。
 私は今年で還暦を迎えました。でも今までの約60年のうちの、約三分の一近くの22年間というのは親がかりの生活だったと思うんです。親から仕送りをしてもらって学校へ行っていました。自活するようになってからはまだ30年とちょっとしかたっていないんです。もし私が平均寿命まで生きられるとしたら、あと何十年かあるわけです。
 これから先というのは、自分が一体なにをやりたいのかということがはっきりと見えてからの何十年になります。
 私は今までよりももっともっと密度を濃くいきたいと思っています。私たちは限られた時間しか生きていることはできないわけです。150年も160年も生きていたいといっても、それは絶対にできないわけです。その限られた時間の中で、私たちが残せるものといったら、お金でも物でもないし、本当に自分自身の毎日毎日の生活の積み重ね、自分だけの歴史だと思うんです。
 その歴史を本当に自分がやりたい、という物を持っているなら,これを悔いなくやってみたい。そして自分自身の歴史をうんと豊かなものにしたい。いずれ死んでいくときに、ああ面白かった、やるだけやった、生まれてきてよかった、と思いたいという気持ちがすごく強いです。

2020年までの登山計画
 ですから七大陸の最高峰踏破というのは終わりましたけど、今はどんな小さな国のどんな低い山でも、その国の最高峰というのがあると思いますので、それを目指しているんです。
 国連に加盟している国だけでも百八十数カ国ありますが、そのうちまだ28カ国しか登っていません。今月はアフリカにあるカメルーンという4000メートルちょっとあるとても美しい山に行く予定にしております。
 どこまでできるかわかりませんが、自分では勝手に平均寿命までは生きられるだろうと予想そして、その年、2020年なんですが、それまで私なりの登山計画は持っています。本当にできるかどうかはわかりませんが、自分が立てた予定と、実際の行動を一致させていくような口先女ではない生き方をしたいなと思っています。
                                                                                               
体力より技術より大事なもの
 私はよく聞かれるんです、ずっと長く山登りを続けてきて、登山に必要ないというか、ヒマラヤ遠征に行けるような人の条件とういうのはなんでしょうかと。
 もちろん、体力というのはないよりあったほうがいいです。
 技術というのもないよりあったほうがいいです。じゃあ、体力と技術があれば登れるかというと決してそうではないんですね。
 私は1970年に女ばかり9人で隊を編成してアンナプル3峰という7555メートルの山に行ったんですが、その時の経験で、ヒマラヤを登山するということは、体力と技術だけでなくて、一番必要なものはなにかといえば、ほんとうにやるんだという意志だと思いました。それから自分たちが一番困ったとき、一番のピンチに陥ったとき、どうすればいいか考えられる人、こういう人がとても大事なんです。
 たとえば上のテントにいったときに、たまたまコンロが壊れたとします。コンロというのはものすごく大事で、あれがなければ食べるものができないですね。ところがコンロが壊れた原因は一体どこにあるのかというのを考える前に、どうしてこんな壊れたコンロを運んできたのとか、これを運んできた誰々さんが悪いだとか、用意した装備係が悪いだとか、果てはこういうコンロを売ったあの店が悪いだとか、果てはこういうコンロを売ったあの店が悪いだとか,つい相手を責めてしまいます。
 相手を責めてコンロが直るんだったらそれは一番簡単です。でもいくら責めてもコンロは直らないわけです。

失敗した本人が一番悔いている
 何かしていて失敗したとき、その時は失敗した本人が一番しまった、と思っているわけです。そこへ持ってきてあなたが悪い、あなたのせいだ、ということを言ってしまいますと、気持ちがうんと萎縮してしまうんですね。それが高じてしまいますと、なにを言っても、どうせ私が悪いんですからということになってしまいます。そうしますと前向きに物事を考えるということができなくなってしまうんです。
 コンロが壊れた原因は一体どこにあるのかーほとんどの故障の原因は詰まることにあります。特にインドとかネパールは石油とかガソリンの品質がすごく悪いですから、すぐに詰まってしまうんですね。
 次に考えられるのは、パッキングという革の部分があって、それで圧力をかけるんですが、非常に使い方が激しいですから、その革が摩滅してしまって、エアが入らないということがよくあるんです。もしそうだとしたら、登山用品はどこかしらに皮を使っていますのでー例えばピッケルのケースというのは絶対に皮でできていますから。それをほんのちょっと切って、ナイフで真ん中に穴を開ければ十分にパッキングの代用になるんです。

友人に頼んだ登山用食料の購入
 ところがコンロ用のパッキングがないから直せないとか、スパナがないからできないとか、工具がないからだめだとか、直らない条件ばかりを言ってくる人がいます。これでは絶対に問題解決にはなりません。
 これでだめだったら、こうやってみようかというふうに与えられた環境の中で物事を解決するために考える人と、だからあのときに別なコンロを持ってこようと言ったじゃないかといつも後ろを振り向く人と、この差というのはうんと広がってきます。
 こういう困ったときにこそ、前向きに物事を考えること、これは別に山に行かなくても、普段の生活の中でとても大切な要素じゃないかと思うんですね。

エベレストの準備
 常に前向きに物事を考えられる人のほとんどというのが、ほんとうにやるんだという意志のある人です。
 そういう意志、やる気のある人が欲しかったんですね。そういう人を集めてエベレストにいったんです。
 ネパール政府から登山の許可が届いたとき、子供は生後5ヶ月でした。でも登るのは3年後ですから、この子は3歳になっているなとは思ったんですけれど、そういう子供を抱えての準備というのが、今考えると大変でした。
 どうしても土曜日から日曜日にかけて集会がある物ですから、その前に家にある鍋という鍋を総動員いたしまして、作っておける物は全部作って用意していくわけです。これは土曜日の夜の分、これは日曜日の朝の分、昼の分というように、鍋の上にレベルを張っていくんですね。おむつも2日間は洗濯しなくてもいいように全部セットして山のようにして行きます。慣れない育児を夫がするわけですから出かける方も最大の努力はすべきだと思いました。
 もし私に、エベレストに行くんだからこれくらいやってよという気持ちがあったら、なんだ好きで行くくせにとなったと思うんです。でも私自身が自分の領分を一所懸命こなしていれば、あれだけやっているんだから、協力してやろうという気持ちになってくれたと思うんですね。

1400日の準備を耐えたものの意志の力 
そういうふうに準備して、エベレストに行ったものですから、エベレストに行くために約1400日の準備があったんですね。実際の登山期間というのは、その1割にも満たないわずか130日です。頂上は数時間歩いたうちの、ほんの一瞬でした。
 ふつうの方ですと、あのエベレストの頂上に立って、日の丸を広げた写真をみて、わーすごいなとか女性もやるなと思った方もいらっしゃったかもしれません。
 でも私にとってあれはほんの一瞬の出来事でした。そのほんの一瞬のことのために、1400日という長い間、いろんな地域で、いろんな地域で、いろんな職業を持った女の人たちがそれをずっと準備してきたんだということ。そのことのほうが私にとってはさらに貴重で、とても大事なことだったと思えるんです。
 そういうふうにして登ったんだということを多くの人に知っていただきたいなあと思いました。これができたのも決して体力とか技術が優れていたからできたのではなくて、本当にやろうという意志が強かったからこそ、この長い準備に耐えられたんだと思うんです。
 意志というのはお金で買うこともできないし、親とか第三者が作ってあげるものでもないし、本当に自分自身の心のなかから、なにか燃え上がるようなそういうファイトが湧いて、初めて意志となるわけですから、それだけ非常に貴重なものだと思います。
 私は登山をとおして、意志こそ力だなあと思いました。たいへん早口でわかりにくいところもあったかと思いますが、長い間ご静聴ありがとうございました。
 (おしまい)
H.11.12.7(盛岡市にて)

田部井淳子さんプロフィール
 福島県生まれ。大学卒業後、社会人の山岳会の入会し、登山活動を始める。昭和44年には”女性だけで海外遠征を”を合い言葉に,女子登攀クラブを設立し、50年、エベレスト日本女子登山隊副隊長兼登攀隊長として、世界最高峰エベレスト(8848メートル)に女性として世界で初めて登頂に成功。その後、マッキンリー、リンソンマシフなど各大陸の最高峰の登頂日成功する。平成3年には女性で世界初、世界では6人目の七大陸最高峰登頂成功者となる。現在は一男一女の母親だが年に4,5回の海外登山にも出かけるかたわら、ヒマラヤのゴミ問題の研究にも取り組んでいる。山岳環境保護団体日本ヒマラヤアドベンチャートラストの代表として奔走する毎日を送っている。