ツヨーい味方 和田 梓
「あゝ、こっちへ来る、どうしよう」 さっきから駅のホームのベンチで、缶ビール片手に、ちらちらこっちを眺めていた初老の男が、意を決したらしく、私に向かって歩いてきた。一目でそれとわかる風体である。ちゃんとシャツなんかきているけれど、あの下はカラクリモン、腹には晒しを巻いているに違いない。私は蛇に見込まれた蛙のように、じっと動けないでいた。 「もしかして、○○の和田さんじゃあないかね」 「はい、そうですけれど」 「やっぱし・・・」男は自分の推量がまちがっていなかったことに満足したらしく、ちょっと嬉しそうな顔をした。足元が少しふらついている。酔っぱらっているな、からまれたらどうしよう、と思ったものの、眉をひそめるわけにもいかず、さりとてにっこりするわけにもいかない。 「奥さんはおれを知らないだろうけど、おれは奥さんを知ってるよ。おれは今では○○組の幹部だ」 ふらつく足をふんばって、男はちょっと胸をはった。○○組の幹部だ、と言ったところで一段と声を張り上げたので、ホームにいた人たちがいっせいにこちらを見ている。私は早く電車が来てくれないかしら、そしたら違う乗車口から飛び乗ろうと、そればかりを考えていた。 「おれはこの地区じゃあちょっとした顔だ。困ったことがあったら何でも言ってきな。金の話も百万や二百万なら右から左だ」 百万や二百万でご縁が出来てしまったら、エライことだ、と内心思ったけれど、せっかく親切に言ってくれたのだからと「ありがとうございます」 と、言っておいた。その時電車が来たのを幸い、失礼します、と挨拶をして歩き出したとたん、またもや大声で「奥さんも白髪がふえちまったなあ」 憐れむような一言を残して、彼もまた違う車両に乗り込んで行った。 ほっとしながらも私は心中おだやかではない。衆人環視のなかで親しげに声をかけられ、あげくの果てに、白髪がふえちまったなあ、なんて、一番気にしていることを言われてしまって。それにしてもいったい、誰なのだろう。ちょっとした顔だ、と言ったわりには体格も貧弱だし、凄味もない。あの筋に知り合いはないはずなのに、とそれからことあるごとに、○○組に入っている人知らない、と聞いてみたが、皆目見当はつかなかった。 「きっと小学校の上級生か下級生にいたのよ」 そんな結論に終わったが、この話は家族や知人に大いに受けた。 「ツヨーい味方が出来て良かったね」などと。 そのあと、しばらくして私の家で賃貸のことでトラブルが生じた。 某代議士の一族が経営する土建会社が、資材置場に土地を貸して欲しいという。どうせ空いている土地、少しでも賃料が入れば税金の足しにもなる。そのうえ相手は政治家一族、安心して承知したところ、これがとんでもない食わせものだった。 資材置場のはずがいつの間にか飯場となり、数人の人夫が泊まり込んでいる。契約の期限が来ても出ていってくれない。賃料は払わないで居座る。 朝、私が愛犬のグレート・デンを連れて散歩していると、飯場の二階から声がかかる。 「おっ、茶犬だ、食っちまうぞ、でもありゃ痩せてるなあ」 (何を、グレート・デンはデブデブに肥らしては駄目なんですよ、こういうふうにスマートに仕立てなければ、それより早く出ていけ)私はハラの中で毒づいている。 契約が切れて数ヶ月、ほとほと困って裁判に持ち込もうかという時、はからずも思い出したのが彼のことであった。 「何でも言って来な」と言ったのは、こういう時ではなかったのだろうか。あの人に頼めば子分をいっぱい連れて来て、このヤローとか何とか言って、暴力で追い出してくれるだろう。などと、不埒な考えが頭をよぎった。テレビの見過ぎかな、と苦笑しつつも、この期に及んで思い出してしまったのも事実であった。 正規の裁判は時間もかかるしお金もかかる。それよりてっとり早く、彼らを利用する人もあるのだろう。 彼もどこでどう狂った人生か分からないけれど、私に名前を名のらなかったということは、名のりたくなかったのかも知れない。それとも名のらないのが彼のプライドだったのだろうか。そして遠い少年の日に思いをはせ、私の白髪に自分の年齢を重ね合わせ、ちょっとの間感傷にひたりながら、いい気分を味わったのではなかろうか、と思っている。 終わり
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