週刊まどか歳時記

2007.12.31で「俳句でエール」の配信は終了しましたが今後は毎週日曜日に「週刊まどか歳時記」が配信されますので皆さんに紹介できるのもは掲載していきます。 詠み人は黛まどかさんです。

なお、「黛まどかの”俳句でエール”」はここをクリックしたら詠めますのでお楽しみください。
                               
No 俳     句       解         説
9111 紅葉狩とはひたすらに歩むこと
(もみじがりとは ひたすらに あゆむこと)
紅葉を愛でて歩くことを紅葉狩と言います。“狩”と言っても、決して紅葉を手折ったりはしません。粧う山野に分け入って、身を浸すように紅葉を鑑賞するのです。いわゆる“ハンティング”ではないのです。こういった自然と人間を一体化するような自然との関わり方は、日本人特有のものだと思っています。桜狩、蛍狩も同様ですね。
さて、初めて紅葉狩に誘われたときのこと。何をするのかと楽しみに行ったら、紅葉が盛りの渓谷を5時間たっぷり歩かされました。そこで得たのがこの句です。
紅葉もややに移ろい始めた様子を“薄紅葉”“初紅葉”。盛りを“照紅葉”。夕方の紅葉を“夕紅葉”。散る様を“紅葉且つ散る”“散り紅葉”など、季語ではその状態や愛でる時間帯で細やかに表現し分けます。つまり盛りだけでなく、移ろう様すべてを愛でていく。これも日本人特有のものです。
最後に、私が好きな紅葉をめぐる季語を一つご紹介します。“紅葉明り”。紅葉のために灯をともしたように周囲が明るくなること。
9621 夕富士を背に父の日の船戻る
(ゆうふじをせに ちちのひの ふねもどる)
6月の第三日曜日の今日は「父の日」です。「父の日」の由来は、今からちょうど100年前のこと。ワシントン州の教会で「母の日」にまつわる説教を聞いていた一人の女性が、「母の日」だけでなく「父の日」もあるべきと、牧師に申し出たそうです。そして亡き父の誕生日である6月に「父の日」を祝う礼拝をしてもらいました。彼女は幼くして母を亡くし、五人の兄と共に父の手で育てられたのです。1909年6月19日、第三日曜日のことでした。これが「父の日」の始まりです。彼女は父の墓前に白い薔薇を供え、感謝の祈りを捧げたそうです。
さて、拙句は、父の日の港の光景を詠みました。飛びきり美しい富士山を背景に、船が港に戻ってきます。どうやら大漁だったようです。魚を満載にした船も、それを待つ家族も誇らしげに見えます。子供にとって働く父の姿は眩しいものですが、夕映えの中の大漁船は、富士山のように堂々と頼もしく見えたことでしょう。
バレンタインデーの後のホワイトデーのように、「母の日」の陰で素通りされがちな「父の日」ですが、ぜひお父さんに日頃の感謝を伝えてみませんか?電話一本でもカード一枚でもいいと思うのです。もちろん5・7・5でも!
9426 青空は神のてのひら揚ひばり
(あおぞらは かみのてのひら あげひばり)

北スペインのサンティアゴ巡礼をした折の一句です。私が歩いた「カミーノ・デ・フランシス」(フランス人の道)と呼ばれるルートは、フランスからスペインに入って一週間程はピレネー山脈越えですが、その後はメセタと呼ばれる大平原を、来る日も来る日も歩き続けます。巡礼道ではメセタに入ると麦畑が広がり、風が吹くと麦畑が波立って一面海のように見えます。「今日も朝麦畑を出発して、夕方麦畑に到着した」…そんな毎日です。巡礼を始めた頃には青かった麦が、到着する頃には黄金色の麦秋になっていました。
どこまでも広がる麦畑と青空。道端で揺れるアマポーラ、鳥の囀り、羊飼いの少年、出会っては別れてゆく巡礼者たち、教会の鐘の音、夜空を埋め尽くす星々…。巡礼途上で出会うもの、起こることのすべてが、神の掌の中にあるように思えました。
青空の深いところへ一心に揚がっていくひばりのように、自身の感動と感謝を、美しい言の葉に乗せて神に捧げたい。そんな思いで毎日俳句を紡いだ巡礼の日々でした。
9208 巡礼の靴逃げ水を追ひつづけ
(じゅんれいのくつ にげみずを おいつづけ)

今から十年前に、北スペインのサンティアゴ巡礼道を歩いた折の一句です。"逃げ水"とは陽炎のこと。日差しが強くなってくると陽炎が立ち、道や野原の彼方に水溜りがあるように見えます。追っても追っても逃げていくように見えるので、"逃げ水"と言います。私が出発したフランスのサン・ジャン・ピエ・ド・ポーから終点のサンティアゴ・デ・コンポステーラまでは約九百キロの道のりでした。日本でいうと東京から広島くらいの距離です。ピレネー山脈を越え、メセタと呼ばれるスペインの平野部に入ると、まっすぐに伸びる道が続きます。道の先にはしばしば逃げ水が現れました。あと700kmという道標を目にした時には、「こんなに小さな一歩を重ねていて、いったい本当にコンポステーラに着けるのか…」と気が遠くなりそうでした。しかしどんな小さな一歩でも、それなくしては終点にたどり着くことはできませんでした。
巡礼とはともかくひたすらに歩くこと。ひたすらに逃げ水を追い続けることなのだと思います。日々の生活もまたそうなのかもしれません。巡礼を果たしてからは、「やっている事の意味など考える前にまず動く!そしてひたむきに続ける」これが習慣になりました。
8921 ひぐらしに伏し目がちなる韓仏
(ひぐらしに ふしめがちなる からぼとけ)

2001年、韓国の釜山からソウルまで、徒歩による旅をした折の一句です。当時日韓の関係は、教科書問題や靖国参拝問題に揺れ、決して良い状態ではありませんでした。しかし実際歩き始めると、韓国の人たちはとても親切で、大きなリュックを背負った通りすがりの旅人に気さくに声を掛けてくれ、飲み物や食事を惜しみなく振舞ってくれました。宿が見つからず途方に暮れていた私を、見ず知らずの方が無償で自分の家に泊めてくださったこともありました。よく日韓のことを近くて遠い国と表現しますが、韓国人と触れ合う中で、良く似ている点や全く相容れない点の両方を実感した旅でした。
さて、掲句は慶州の仏国寺で詠んだものです。案内によれば、同じ仏像でも、中国の仏像の目線は上目使い、韓国は伏し目がち、日本はまっすぐ…とそれぞれに特徴があるそうです。それは中国の誇り、韓国の遠慮、日本の正直を象徴しているのだとか。「中国の誇り以外は当たってないなァ」などと思いながら、私は仏国寺をあとにしました。それはともかくとして、よく似ているからこそ逆に僅かな違いが妥協できない東アジアの人々。少しずつ違う目線を尊び合い協力したら、大きな力になるのにと思われてなりません。
8817 防人の山のかなかなしぐれかな

(さきもりのやまの かなかなしぐれかな)

佐賀県の基山で詠んだ一句です。
663年、白村江の戦いで百済に援軍を出した日本は、唐と新羅の連合軍に大敗します。それは日本にとって初めての外国との戦争でした。朝鮮半島から退却すると朝廷は直ちに大宰府防衛のための山城を築造し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置いて警備をさせました。防人は主に東国から集められました。男たちは、老いた父母や愛しい妻子を残し、幾つもの山を越え、未知の国を目指しました。任期は三年。無事に帰ることの出来なかった者も少なくないといいます。防人の歌は、男たちの絶唱として『万葉集』に84首収められています。
基山の基肄城(きいじょう)には500人を超える防人が配備されたそうです。遥かに博多湾を望む山頂の城跡に佇つと、全山から蜩(ひぐらし)の声が湧き上がってきました。それはすすり泣きのようにも悲鳴のようにも聞こえ、防人たちの嘆きを思わずにはいられませんでした。
8525 紫陽花に佇んで胸濡らしけり

(あじさいに たたずんで むねぬらしけり)

二十代の時、突然原因不明の病気にかかり、半年ほど闘病していた折のこと。完治はむずかしいと医師から告げられ、私は自らの人生に絶望しかけていました。絶対安静の日々の中で、窓から見える紫陽花は刻々と色を変えて咲き続けていました。やがて終(つい)の色を得て、紫陽花は枯れていきました。私はその時自分も紫陽花のように移ろうものの一つに過ぎないのだ。今どの色にあるのかはわからないけれど、終の色を得るまでは、精一杯生き切ろうと思いました。やがて原因が究明され、私は病から解放されたのです。
その頃恋人と鎌倉まで紫陽花を見に行ったことがあります。群れ咲く紫陽花の向こうには、鎌倉の海が真っ青に広がり、紫陽花の色を際立たせていました。その人は紫陽花を包んでいた海のように、当時私を支えてくれました。しかし彼は若くして病に倒れ、既にこの世の人ではありません。
ちょうど胸の高さに花をつけた一叢(ひとむら)の紫陽花。あまりの美しさに足を留め佇んでいると、紫陽花をめぐるさまざまなことが去来します。紫陽花から離れたときに、少し胸元が濡れていたのは、紫陽花が抱いていた雨雫のせいだけではなかったのでしょう。
8323 花の夜の石塀小路抜けやうか

(はなのよの いしべいこうじ ぬけようか)

詩歌の世界では、"花"といえばすなわち"桜"をさします。日本人にとってやはり花の代表は桜であるということを意味するのでしょう。ですから"花の夜"とは桜の咲く夜のことです。
石塀小路は、京都の八坂神社の南側、下河原通りから高台寺通りへ抜ける小路を言います。狭い路地の両側には、古い町家や料亭、旅館などが並び、情趣(じょうしゅ)溢れる小路です。
「清水へ祇園を抜ける櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」与謝野晶子の歌が口をついて出てくるような、美しい花の夜。"可惜夜(あたらよ)"という言葉がありますが、まさに寝てしまうのが惜しいような、いつまでも眺めていたいような惜しむべき夜です。「ちょっと遠回りになるけれど石塀小路を歩いて帰ろうか…」誰もがそんな風に思う京師(けいし)の花の夜でした。
忙しい毎日。たまにはそんなひとときがあってもよいのではないでしょうか。かと言っていくら時間が出来ても実は無為に過ごしていることが多いものです。ゆとりとは時間ではなく、自分自身の心の中に育むものだと思うこの頃です。
8127 どの道もいつか果ある寒椿

(どのみちも いつかはてある かんつばき)

今から8年前、北スペインのサンチャゴ巡礼道約900kmを歩いたことがあります。巡礼道の終点サンチャゴ・デ・コンポステーラは、カソリックの三大聖地の一つで、世界中から多くの人々が巡礼に訪れます。髪や目の色、言語、文化など、全く異なる背景を持つ巡礼者が、助け合いながら同じゴールを目指して一筋の道を歩きます。
ピレネー山中だったでしょうか、「あと700km」の道標を見た時には、終点までの道のりの長さに「こんなに小さな一歩を重ねて、本当に辿り着けるのか…」と途方に暮れたこともありました。ゴールした時、私の万歩計は約312万歩になっていました。当たり前のことですが、途中虚しいと感じたどの小さな一歩なくしても、ゴールには着けなかったのです。巡礼の体験は私に、歩き続ければ必ずゴールに辿り着けることを教えてくれました。
人生という道を、今日も懸命に歩く人が世界中にいます。髪の色も目の色も言語も文化も違(たが)えながら…同じ果を目指して。果の向こうには新たな道が続いていることでしょう。厳寒の中にくれないを尽くす寒椿に、人が生きる姿を重ねました。
8120 掃き寄せし塵の中より冬の蜂

(はきよせし ちりのなかより ふゆのはち)
蜂には蜜蜂などのように雌雄で越冬するものと、スズメバチのように交尾後に雄が死に、雌(新女王蜂)だけが越冬するものとがあるそうです。厳しい冬を生き抜いた雌は、春になると一匹で巣作りをして産卵します。“冬の蜂”とは、冬に生き残った蜂の総称です。
落ち葉を掃いていたときのことです。掃き寄せた芥の中から、一匹の蜂がよろよろと這い出てきました。まるで、「まだ生きているよ…」と言わんばかりに。枯葉に紛れてしまうほど弱々しかった蜂ですが、必死で塵の山から這い出てきた姿には、驚くほどの力強さを感じました。
授かった命を生ききろうとする冬の蜂です。「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句があります。弱々しくさまよう冬蜂を“死にどころなく”と表現し、その凄絶な終焉を見事に詠っています。私は懸命に生き抜こうとする冬の蜂に、生命の力強さと眩しさを見ました。
8113 寒晴の逃げも隠れもできぬ空

(かんばれの にげもかくれも できぬそら)
冬の間、太平洋岸は快晴が続きます。寒中の晴れ渡った日を寒晴と言います。きりりと引き締まり雲ひとつない晴天の空は、さあどこからでもいらっしゃいと胸を開いているように見えます。掲句はある悩みを抱えていた頃に作った一句です。沈みがちな心を奮い立たせ、空を仰ぐと、どこまでも一心に青を尽くす空が広がっていました。私は辛いこと嫌なことを出来るだけ避けようとしては来なかったか…見て見ぬふりをしては来なかったか…。悩みから逃げてはいけない。正面から向き合い、自分の力で克服してこそ、はじめて真に悩みから解き放たれるのだと寒晴の空は教えてくれたのです。また私たちの身の回りに起こるすべてのことに偶然はない。困難さえも自らが招いたことであり、意味があることなのだとも思うのです。そこから何かを学び、乗り越えてこそ、人生は前に進み、より豊かな充実したものになるのではないでしょうか。苦しいことも神様からのギフトなのかもしれません。
8106 御降りに濡れたる襷渡し継ぐ

(おさがりに ぬれたるたすき わたしつぐ)
御降りとは元旦もしくは三が日に降る雨や雪を言います。御降りのあった年は豊穣とされており、めでたい雨・雪なのです。
この句は箱根駅伝を詠んだものです。正月二日、霙(みぞれ)混じりの冷たい雨の降る中、顔を歪めながらまさに命がけで箱根の険しい山道を選手たちは走り上がります。自らの汗と御降りに塗れた襷を次の選手に渡した途端に倒れ込む選手もいます。
駅伝を見るたびに、生きるということは自分一人のことではないのだと、あらためて思います。精一杯生きて自分の役割をきちんと果たし、次の世代に汗や風雪にまみれた襷を渡すこと。駅伝も人生も、命のリレーなのだということを自覚しつつ、自らの役割を全うしたいと日々念じています。